日本軍の圧勝の真相
我々日本人は「日中戦争では日本は大敗した」と教えられ信じ続けていました。しかし、事実は日本は圧勝だったのです。日中戦争は、蒋介石からの「中華民国」奪回のための戦いでした。北部政府(旧北京政府)による戦争であり、日本は「外国」として勝利し、蒋介石を国外排斥することで、蒋介石の独裁からの解放とイギリス等の植民地化危機からの脱却を支援したのです。
日本が「外国」として、蒋介石の「中華民国」と戦い、完全勝利し、領土を占領すれば、蒋介石が「中華民国」を奪回するには、まず「日本と戦い勝利」する必要があります。南京陥落で、蒋介石の首都を奪い、蒋介石政府を潰滅すれば、二度と「中国」を独裁出来ませんし、蒋介石を国外排斥出来れば、イギリスも植民地化を断念せざるを得ず、蒋介石を見切って、中国からは撤退するでしょう。
日本が「外国」として「盾」の役目を担ったということです。蒋介石独裁下の「中華民国」を全土占領しつつ、各地で治安維持会を成立(独立の承認)。その間に、国家として復興を目指します。 続きを読む
昭和14年5月(1939年5月)発行「歴史写真」
昭和14年3月(1939年3月)時点での
「新中華国現勢図」(日本軍圧勝の証拠写真)
下図は、日中戦争で、北支(中国北部)が完全平定(蒋介石勢力の排斥)した頃の日本軍の戦勝図です。ほぼ全土に日本の旗が見えます。日中戦争では、日本が圧勝していたという確固たる証拠です。日本はその後も占領地域を拡大し、5月からはイギリスと敵対するソビエト(ロシア)ともノモンハン事件で戦います。7月に日本の勝利が決まったと同時に、日英会談でイギリスは中国の実質的な撤退を誓約するに至ります。この辺りまでは戦略通りだったといえるでしょう。
普通であれば、新政府が蒋介石政府軍の敗残兵の討伐に出れば良いところですが、新政府が動けば、蒋介石政府軍と直接対決となり、ここから内乱が勃発します。万が一、負ければ、蒋介石政府を潰滅する機会を半永久的に失うでしょう。イギリスとアメリカが本土進軍するからです。だからこそ、日本軍が戦ったことにして、蒋介石政府を完全潰滅する必要がありました。
北部や中央部では、北京の無血開城の翌月から、蒋介石政府の軍事拠点となっていた都市を中心に進軍していました。
南部の上海方面では、蒋介石が政府移転した都市に向って進軍して行きました。その後、南部を更に南へ進軍し、かつての清帝国の領土をほぼ奪回しました。
中国は蒋介石の独裁により「疲弊」していました。日本軍が中国各地を巡ることで戦争を長引かせ、その間に、独立国家に向けて「復興の時間稼ぎ」をしていたとも言えます。 続きを読む
ここでは、南京陥落後、新支那中央政府が樹立するまでの過程として、日本軍がどのように中国を巡って占領下に置いたかを「歴史写真」の記事と共に追ってみます。北支那:中国の黄河から北側
中支那:中国の黄河と揚子江(長江)の間
南支那:中国の揚子江から南側
上記地図の参照元:中国語スクリプト ー http://chugokugo-script.net/chugoku/kouga.html
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