日本軍の圧勝の真相8-済南の陥落

日本軍の圧勝の真相8-済南の陥落

昭和12年(1937年)12月14日は、北京で「中華民国」の新しい政府(国民政府)が誕生します。前日の13日は、日本軍が、南京の陥落と占領を完了しました。これは、北部政府が、ようやく、南部政府の蒋介石から「中華民国」の奪回したことを意味しました。

北部では、昭和12年(1937年)8月8日に、北京の無血開城により日本軍の占領下となり、その後は、北西方面、南西方面、東南方面と、鉄道の路線に沿って南下し、各都市を占領し、同時に、治安維持会(自治政府)を成立させていきました。東南方面は、天津⇒滄州⇒済南へ進軍し、各都市を占領下に置きました。

昭和13年2月(1938年2月)発行 「歴史写真」 から
昭和12年12月(1937年12月)支那事変写真ー山東省済南城占拠

記事:

(上右)  十二月二十七日、山東省の首都濟南は遂に我軍の占據するところとなり、越えて一月一日、同市大馬路なる商務會に於て、濟南治安維持會成立を告げ、人口四十萬の大都の安寧は、遺憾なく保たるることとなった。寫真は當日の同維持會々長馬良氏。

(上中)日章旗と五色旗とを以て飾られた平和の街南京。
(左上)  皇軍、濟南を占據し、その城門の樓上に日章旗を掲げ、萬蔵を叫べる我兵
(右下)  我軍既に大黄河を渡り、所在の頑敵を蹴散らしつつ、濟南目指して進軍する有様。
(左下)  皇軍既に濟南城を占據し、十二月三十日我が〇〇部隊長以下の将士は、戰勝の意氣昂然、歩武堂々入城した。寫眞はその光景である。

 

12月27日に、済南は陥落と占拠が終わり、翌年1月1日に、済南治安維持會が成立します。この当時は、治安は「保安隊」など「軍隊」が担っており、当然、武器を保有していました。済南でも、蒋介石政府軍は、武器や兵器をそのまま放置して、逃走していたようです。そうした武器や兵器は、治安維持会の警察隊が引き継いだといえます。

植民地政府や傀儡政府のように、各国が「言い成り」になったのは、長期の内乱平定までに支援を受けた軍事借款という借金があったからです。日本と中国との間には、そのような関係はありませんでした。中国は、日本が、冗談でも「侵略できるような国」ではありません。日本も解っているからこそ、蒋介石に、大使館や邦人居留区の襲撃や強奪や時に虐殺という目に遭っても、長い間、全く反撃できず我慢していたのです。

日中戦争は、「日本が侵略する戦略」を使い、中国人が蒋介石の独裁からの脱却を図った戦いでした。もちろん、「戦わずして勝つ」を実践したため、実際の「戦闘」は、特に北部では殆ど無かったでしょう。

 

写真拡大ー済南目指して進軍する日本軍

上記は、北支那方面で、済南への進軍の途中ですが、どことなく呑気な印象を受けるのは私だけでしょうか?一応、蒋介石政府軍という巨大な軍隊と戦争中の行軍です。普通であれば、どこから銃撃されても不思議は無い「敵の領土」を進軍しているのですから、殺気とか緊張感とか感じられて然るべきです。この橋は、黄河に掛かる橋のようです。済南へのルートであれば、下流域であり、川幅もかなり広くなっているはずです。かなり岸よりに撮影ていますが、遠景で撮影すると、日本軍が実際には非常に少なかったのが解ってしまうからでしょうか。「歴史写真」では、日本軍の人数を、なるべく多く見せる工夫が見られます。

北京から済南への行軍ルート(Google Mapを加工)

 

写真拡大ー済南に入城する日本軍

済南は、南京と同様、大きな都市であり、日本軍の占領は、蒋介石軍やイギリスにとっては、北部での敗戦を決定づける事態だったともいえます。日本は、これを誇示するためか、済南では、軍隊の入城式を行ったようです。この幟は、中国人の方々が用意してくれたのでしょうか? 日本軍が自前だったら、ちょっとダサいですから。イギリスの自主的な撤退を目論んでいたので、折々、派手な入城式を執り行ったようです。

 

写真拡大ー済南治安維持会の成立

12月27日に、済南は陥落と占拠が終わり、翌年1月1日に、済南治安維持会が成立しました。日本軍は人数が少なすぎて、各地の治安回復には十分な人員を割けないので、早々に、中国人市民に自治会を成立して貰う必要があったのでしょう。会長の馬良氏も、穏やかな顔です。

当時は、兎に角、中国が植民地化の危機から脱しないと、日本も確実に植民地になってしまう状況でした。これは、蒋介石と対立していた中国共産党も同様でした。張学良を通じて、水面下では協力体制だったのです。また、日本は、イギリスと対立するソビエトとは、満州鉄道で経済的な連携関係がありました。アメリカやヨーロッパに対しては、日本は、中国共産党とソビエトとは対立している様に振舞い水面下では、協力体制があったといえます。当時の「歴史写真」では、日本軍と中国共産党の衝突の記事は殆どありません。

日中戦争中、日本が中国共産党と激戦状態だったという話も、戦後、蒋介石の捏造です。蒋介石が、中国の独裁時代に、中国共産党を潰滅寸前まで追い込んでいた事実を隠ぺいするため、日本に罪を着せたのです。実際に、中国共産党の撲滅戦争をしていたのは蒋介石だったからです。

 

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日中戦争での日本軍の行軍と本当の歴史については、必ず、訂正されるべきと思います。このサイトでは、特に日本軍の行軍に関して、出来る限り多くの写真を紹介したいと思います。

歴史の専門家の皆様、研究家や愛好家の皆様に、実際に見て頂いて、歴史訂正活動にご協力を賜れれば大変幸甚です。

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