日本軍の圧勝の真相1ー北京-綏遠ルートの進軍

日本軍の圧勝の真相1ー北京-綏遠ルートの進軍

北支(北支那)は、昭和12年(1937年)8月8日に北京を無血開城した後、北京の北西方面から太行山脈の間を抜けて内蒙古側の綏遠へ抜けるルートへ進軍して行きます。日中戦争では、日本軍は極めて劣勢であり、本来であれば、絶対に勝てない戦いでした。ですが、南口鎮もあっさり占拠しています。

昭和12年10月(1937年10月)発行「歴史写真」から
昭和12年8月(1937年8月)-皇軍南口鎮を占拠す(支那事変特集 北支方面の七)

記事:

有南の央
(右上) 北本北方の曠野を前にして、我が哨兵の警戒振り。
(左上) 我が〇〇部隊は八月十一日より南口方面に立籠る中央軍の精鋭を撃攘すべく前進を開始した。寫眞は同方面我軍の進擊。
(右下) 八月十二日、一大激戦の後、我〇〇部隊が、南口鎮記念碑附近の敵陣地に、喊聲を揚げて突入しつつある有様。
(左下)我軍に占據されたる南口の町に日章旗織る光景。

昭和12年10月(1937年10月)発行「歴史写真」から
昭和12年8月(1937年8月)-皇軍南口鎮を占拠す(支那事変特集 北支方面の七)

記事:

事変勃發以來、 皇軍は第二十九軍とのみ戰火を交へ來つたが、平津鎮定と共に、愈 々支那側の精鋭中央軍と干戈相撃つこととなり、我軍の先登は、八 月十一日朝來、南口附近に蟠居する中央軍第八十九師を撃攘すべく前進を開始し、一戦忽ち〇〇縣城を占據すると共に、一部は急進、 敢然南口の前面に躍り出で、大激戰を展開
た。寫真は歩武堂々前進する〇〇部隊。

 

上記の写真を見れば、日本軍が非常に少ない人数で進軍していた事が解ると思います。上海方面に全域で3万~3万5千派兵しており、北京方面も全域で3万程度しか人員確保出来ておらず、それを各方面に分散していました。蒋介石政府は、各地域の大軍閥が連合し、非正規兵も含め275万人規模でした。20万程度の兵力は特に多いとはいえませんでした。一方、日本軍は、せいぜい数千程度です。各都市の城壁内に大砲などを構えて攻撃出来る蒋介石政府軍に対して、普通では全く歯が立たなくて当然です。

それが、あっさり占領出来ていたのです。北部では、旧北京政府の軍閥との戦いでしたので、城壁を壊して入城して占領が完了していたといえます。

日本軍は、このまま張家口から綏遠へ入り、内蒙古の分離独立が達成します。

昭和12年10月(1937年10月)発行「歴史写真」から
昭和12年8月(1937年8月)-皇軍力戦して続々敵の要地を占拠す(北支方面の四)

記事:

津浦線及び平漢線に沿うて南下の態勢にある皇軍、及び、平綏線に沿うて北上、既に 察哈爾省張家口を占據したる皇軍が、それぞれの方面に於て頑強なる敵の抵抗を排撃しつ占據したる要地は、枚舉に遑なき数に上っている。

写真:
(右上)は長辛店占據と共に、同地に古くから聳え立つラマ教の古塔に至り、萬歳を唱える我軍。
(左上)長城線に沿ふ〇〇の占據成り、将卒聲を合せて萬蔵を叫ぶ有様。
(右下)平綏線に沿ふ〇〇に於て、我が砲撃の爲め、敵陣火災を起こせる有様。
(左下)我軍堂々楡垡鎮入城の光景である。

左上の写真ですが、多分、日本軍はあれでほぼ全員では無かったでしょうか?この人数で、普通に戦って、中国の都市を陥落出来る訳がありません。ですが、事実として、「枚舉に遑なき数(数えきれない程の多くの)」の都市を占領していた訳です。右下の「敵陣火災」も、こんな原っぱ同然の場所を攻撃して何のメリットがあるのかと思うような感じさえします。内蒙古方面も、各都市に分散したでしょうから、更に少数で巡っていたのではないでしょうか?

 

昭和12年11月(1937年11月)発行「歴史写真」から
昭和12年9月(1937年9月)-平綏線上疾風迅雷の我軍

記事:

去る七月下旬、察哈爾方面に不法侵入したる中央軍及び共産軍部撃破のため、關東軍所属の我が〇〇部隊は、德王並に李守信大將の率ゐる內蒙軍と協力、察哈爾張北より敵を追ふて張家口に入り、更に所在の機敵を掃蕩し、又、他の我が一軍は、懷來をも占據した。

写真:

寫眞の(右上) 察哈爾方面に於て我軍の鹵獲したる敵の機關銃とダムダム弾。
(中上) 懷來に入城の我が〇〇部隊。
(右下)懷來市街の偵察。
(左上)斷然、南京中央政府より離脱して、九月三日張家口に成立したる蔡南自治政府の最高委員で、左は千品卿氏。右は杜運字氏。
(左下)同じく自治政府である。

上記の南京中央政府とは、蒋介石政府のことです。ちなみに、中国共産党軍は、中央軍と同様に、反蒋介石派の軍隊でしたので、もし本当に参戦していたとすれば、中央軍と同様、戦わずに撤退を繰返していたといえます。当時、中国共産党は、中国の西方方面を本拠地としていましたので、参加さえしていなかったかも知れません。

 

写真拡大ー張家口で蔡南自治政府の成立

張家口の場所

日本軍は、占領と同時に、自治政府(治安維持委員会)を成立させて行きました。当時の治安維持とは、軍事的な行動権を持つ事を意味します。保安隊という軍隊が、警察の役割をしていました。これを認めるということは、日本の占領と同時に、日本からの独立という感じでしょうか?

日本軍が占領したとしても、例えば、北京では臨時政府が成立しており、成立とは日本が承認したということです。「政府=国家」という意味ですから、言い替えれば、独立を認めていたのと同じです。

ですから、占領はしたが、侵略でも、植民地化でも無いのです。占領した日に、即日、実質的に独立ですから。

中国人の市民からすれば、蒋介石が作った巨額の軍事借款(借金)から免除になり、蒋介石の保安隊の私財を強奪略奪から解放され、抵抗すれば容赦なく銃殺。一方、日本は占領直後に、後は「ご自由にどうぞ」と言わんばかりに、各地に「治安維持会(政府)」を成立により地域独立を達成し、最後は、一緒になって「中華民国」の完全奪回です。

 

昭和12年11月(1937年11月)発行「歴史写真」から
昭和12年9月(1937年9月)-愛すべき支那農民

以下の写真は、昭和12年9月の北部での写真ですが、多くの中国人市民が日本国旗を手にしてお茶の接待をしてくれています。

私は、日本は日中戦争では「中国に悪い事をした」とか「日本は戦争犯罪国」とか言われて育ちました。

そのため、以下の写真を見て、占領していた日本が、なぜこんな風に歓迎されていたのか不思議でしたが、上記の様な状況であれば、日本軍は人民解放軍だったわけで、大勢の中国人市民が「お茶でも飲んで行って下さい」と寄って来る気持ちも理解出来ます。そうした視点で以下の写真を見ると、まるでマラソンの水分補給所のようです。

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日中戦争での日本軍の行軍と本当の歴史については、必ず、訂正されるべきと思います。このサイトでは、特に日本軍の行軍に関して、出来る限り多くの写真を紹介したいと思います。

歴史の専門家の皆様、研究家や愛好家の皆様に、実際に見て頂いて、歴史訂正活動にご協力を賜れれば大変幸甚です。

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