日本軍の圧勝の真相6-正定の陥落

日本軍の圧勝の真相6-正定の陥落

昭和13年12月(1938年12月)発行 「歴史写真」 から
昭和13年10月(1938年10月) 一 太原目指して獅子奮迅の我部隊(其他)

記事:

(右上)支那にその人あ りと知られたる閻錫山の本據として、人口四十萬、山西省の主都太原は、皇軍が去る九月以來二ヶ月餘に亘り、その攻略た策し着々作戰を進めつつありたるところである。寫真は正定を占據したる我部隊が、正太線に沿い、太原日指して進撃を續けつつある有樣。

(左上)支那三關の一として、過去の歴史に未だ一度も破れたることなしと謂はるる娘子關の瞼も、皇軍無敵の猛攻撃には遂に支ふる能はず、十月二十日難なく占據せられた。寫真は我が先遣部隊堂々關門に入るところ。

(右下) 京綏線の終點包頭は、大黄河畔に於ける敵の要地。 是また姿に我が手に歸し、快速部隊が住民の歡迎裡に、入城しつつある有様。

(左下) 京漢線に沿ふ彰河を渡り進撃する我が乘馬隊である。

石家庄から平定への進軍

写真拡大ー住民に歡迎される日本軍

上記の写真は、包頭という都市へ日本軍が入城した際の写真です。この写真を最初に見た時、なぜ中国の一般市民が、「侵略しに来た日本軍」を、これほど歓迎してくれていたのか理由が解らなかったものの、学校や社会で教えられていた話とは何かが違うと思いました。

日本は、占領しましたが、侵略はしていません。我々は「戦争犯罪国では無い」のです。それを日本人に知って欲しい。

 

閻錫山は、「中原大戦」という第二次中国南北戦争で、蒋介石に反旗を翻し、戦争を起こした人物です。元々は、旧北京政府を構成していた軍閥の長です。

中原大戦の真相1ー第2次支那動乱 ご参照

中原大戦の真相2ー蒋介石と閻錫山 ご参照

閻錫山は、張学良と共に、祖国の「裏切り者」の汚名を着て、反日抗日を先陣切って叫び、実際には、蒋介石政府の内部崩壊工作を着々と進めていたのです。蒋介石を騙すには、徹底的な反日抗日、反満州の姿勢を貫く必要があったでしょう。日中戦争=反蒋介石戦争の決起に備えてです。

日本軍は、北京から、平漢線という路線に沿って南下し、途中の都市も含め、保定城、石家庄城を陥落、占領、即、治安自治政府樹立を繰返しながら、太原へ進軍して行きました。

 

太原への行軍

上図では、少し解り難いですが、中国は、北部の北京の北側から、中央部の西安の北側辺りまで、太行山脈という非常に大きな山脈が走っています。これが、中国の中央部にとっては、「自然の城壁」となっています。

山西省は、閻錫山の管轄地ですが、内蒙古側と内陸側の真ん中を山脈が横切る地形です。

太原と太行山脈

写真拡大ー娘子関の占拠

娘子關という場所は、石家庄から、平定へ向かう途中にあります。太行山脈の地帯であるため、上記の写真の鳥、城門前は急な坂道になっています。

 

 

 

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日中戦争での日本軍の行軍と本当の歴史については、必ず、訂正されるべきと思います。このサイトでは、特に日本軍の行軍に関して、出来る限り多くの写真を紹介したいと思います。

歴史の専門家の皆様、研究家や愛好家の皆様に、実際に見て頂いて、歴史訂正活動にご協力を賜れれば大変幸甚です。

 

 

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