朝鮮半島の日本併合の真相5-李氏朝鮮(Rhee Dynasty)は征服王朝

朝鮮半島の日本併合の真相5-李氏朝鮮(Rhee Dynasty)は征服王朝

李氏朝鮮(Rhee Dynasty)の王族は、中国北方部の鮮卑族の「李氏(Rhee Family)」の血筋であり、これは、中国の唐の皇帝一族の末裔です。唐は、618年に、鮮卑の李淵が「隋」を滅ぼして建国し、907年に滅んだ中国の王朝です。「隋」も鮮卑の「楊氏(Yang Family)」が建国した国ですが、隋の時代から、朝鮮半島の侵略のため、高句麗の討伐を行っています。唐の時代には、朝鮮半島の討伐が更に本格化しています。唐としては、朝鮮半島を制圧した後は、当然、日本列島へ勢力拡大を狙っていたでしょう。

高麗(Koryeo)から李氏朝鮮(Rhee Dynasty)への改名の経緯

唐の皇帝一族は、907年に国が分裂崩壊した後、朝鮮半島へ逃げ込み、約10年後の918年には「高麗(Goryeo)」という国を建国します。唐は618年の建国以降、朝鮮半島の軍事制圧に折々乗り出しでいました。668年に高句麗(Ko-gu-ryo)滅亡後は、唐は新羅と手を組み朝鮮半島の制圧を進めて行ったようです。

918年に朝鮮半島で「高麗(Goryeo)」を建国する際、李氏朝鮮のように自分達の出自を明確にしなかった理由は、唐が政治崩壊し、中国本土から追放されたためでしょう。唐の王族が新国家を建国したと解れば、中国側から大軍に攻め込まれる可能性が高かったからでしょう。そこで、敢えて250年程前にあった「倭人の国」である「高句麗(Go-gu-ryo)」に似せて、「高麗(Goryeo)」としたのでしょう。自分達が、中国の鮮卑族であり、唐の皇帝一族であることを隠すためです。日本領時代は、「高句麗(Go-gu-ryo)」は「高麗(Go-ryeo)」とも呼ばれていました。

ちなみに、高句麗(Go-gu-ryo)の王族など「生き残った人々」は、高句麗(Go-gu-ryo)滅亡後は日本へ引揚げています。918年に建国の高麗(Go-ryo)と、668年に滅亡した高句麗(Go-gu-ryo)とは、全く別の国家です。

★中国諸国からの討伐回避

中国では、907年に唐が分裂崩壊の後、約50年の五大十国時代の深刻な内乱時代に陥りました。960年、宋(北宋/南宋)の建国で中国は混乱期を脱します。この時代は、通常、滅ぼされた国の皇帝一族は潰滅されました。将来的な報復を回避する為にです。中国本土から朝鮮半島へ逃げ込んだ「唐の皇帝一族」についても、そのような討伐の対象となっていたでしょう。

そのため、朝鮮半島で「鮮卑族の李氏(Rhee Family)」が「倭人(古代日本人)」の「征服王朝」を建国するに当たっては、唐の皇帝一族は、その国名を、約250年前に滅んだ「倭人の国の高句麗(Go-gu-ryo)」の名前に似せて、「高麗(Go-ryo)」としたのでしょう。実際に、「倭人の国の高句麗(Go-gu-ryo)」は「高麗(Go-ryo)」とも呼ばれていました。異民族の倭人の国がまるで再興したかのように偽装する必要があったのでしょう。

しかし、宋(北宋/南宋)は、後唐の軍人出身者が起こした国であったので、国家崩壊後の唐の皇帝一族の動きについて知っていました。そこで、建国後、朝鮮半島に出来た「高麗(Go-ryo)」を属国とし、厳しい朝貢を課しました。宋(北宋/南宋)は鮮卑族と関係のある一族の国であり、鮮卑の李氏(Rhee Family)とは敵対関係にあったといえます。

やがて、1271年「元」が建国します。「元」も「高麗(Go-ryo)」を属国とし、厳しい朝貢を課しました。1368年に「元」が北方へ退き「明」が建国します。建国後、「明」の皇帝は北伐を開始し、「元」の蒙古族を中国本土から北方へ退去させました。

 

★討伐の危険性の消滅と名称変更

「李氏朝鮮(Rhee Dynasty」の建国は、1392年です。「明」の建国後、北伐が終わり内政安定が達成出来た頃に、国家名称を「高麗(Go-ryo)」から「李氏朝鮮(Rhee Dynasty)」に変更しました。李氏朝鮮とは、「鮮卑族の李氏(Rhee Family)の東(朝)の国」という意味です。「高麗(Go-ryo)」から「李氏朝鮮(Rhee Dynasty= East Xianbei Rhee)」への移行する間に、朝鮮半島では、他の民族などによる独立国家の台頭は特に起きていません。これは、「高麗(Go-ryo)」による「李氏朝鮮(East Xianbei Rhee)」への国名変更と捉えるべきでしょう。

「明」は、1368年から1421年までは、首都が南京でした。首都が北京であれば、朝鮮半島の鮮卑族の討伐も起こり得ました。「明」は「漢民族」の国家でした。彼らは周辺国家への外征は控える傾向がありました。「明」は、「元」のように「戦争と領土拡大を繰返す国家は短命である」と知っていたようです。李氏(Rhee)王家は、国名に出自を表示しても、討伐の危険は無いと考えたのでしょう。

国防上の脅威が消えたとの判断から、元々、自分達の民族名である「鮮卑」を国名に取り入れ、国内外に「鮮卑族の国家」であることを宣言したのです。これが、倭人の国々の半島が、朝鮮(Go-ryo)になり、李氏朝鮮(Rhee Dynasty =East Xianbei Rhee)という国が出来た経緯です。

 

高麗(Go-ryo)と李氏朝鮮(Rhee Dynasty)への厳しい朝貢

907年に唐が分裂崩壊し帝国が滅び、約50年の五大十国時代の内乱時代を経て、宋(北宋/南宋)の建国で中国は混乱期を脱しました。当然、その原因となった「唐の皇帝一族」には、朝鮮半島で再び勢力を回復させないため、また、中国本土へ軍事侵攻させないために対策が取られました。厳しい朝貢は、国家に軍事資金が蓄積されないようにする政策でした。これが高麗(Ko-ryo)以降、日本により清帝国から独立を果たすまで、中国が厳しい朝貢を李氏朝鮮(Rhee Dynasty)に課していた理由です。

李氏朝鮮(Rhee Dynasty)という「征服王朝」を建国した鮮卑族(Xianbei)は、歴史上、中国では多くの大国を作った民族でした。例えば、386年に建国した北魏(拓跋氏)、550年に建国した北斉(高氏)、556年に建国した北周(宇文氏)、581年に建国した隋(楊氏)、そして、618年に建国の唐(李氏)。全て、鮮卑族が漢民族を支配した「征服王朝」でした。

北方異民族の中でも、鮮卑族は、軍事戦闘力が極めて高い事で有名でした。また「征服した民族の首を大量に並べ功績を争った」など、多くの「残忍な逸話」が残っているほど、中国では「恐れられた民族」だったようです。

鮮卑の李氏(Rhee Family)が朝鮮半島で再び勢力を拡大すれば、中国本土へ進出すると恐れられたでしょう。宋(北宋/南宋)は建国後、「高麗(Ko-ryo)」を属国とし、朝貢を課しました。1271年、蒙古族が建国した「元」も、「高麗(Go-ryo)」を属国とし、厳しい朝貢を課していました。「奇皇后」という韓国ドラマでは「元」への朝貢の様子が描かれていますが、女性が大量に中国に連れて行かれるなど非常に厳しい朝貢だったようです。

蒙古族も北方民族であり、鮮卑族の再興は徹底的に阻止していたといえるでしょう。1368年に「元」が北方へ退き「明」が建国します。「明」は当初、首都を南京に於いたため、高麗(Go-ryo)への対応はそれ程厳しく無かったのかも知れません。しかし、李氏朝鮮(Rhee Dynasty)に改名後は、名称から、明らかに「鮮卑の李氏」だと解ったはずです。「明」でも、厳しい朝貢が続き、これは、「明」を征服した満州族の「清」へも引き継がれました。

李氏朝鮮(Rhee Dynasty)は、1000年以上に渡り、中国の王朝の属国でした。「清」から独立出来た理由は、日本が日清戦争で勝利し、独立させたからです。それにより、朝貢の役務が終わりました。

 

李氏朝鮮(Rhee Dynasty)で国民の8割が奴婢(奴隷)だった理由

李氏朝鮮(Rhee Dynasty)と高麗(Ko-ryo)は、元々「倭国(古代日本)」だった朝鮮半島を侵略し、「倭人(古代日本人)」を征服し、ほぼ全員を奴隷化して出来た「征服王朝」でした。それが、朝鮮半島では、李氏(Rhee Family)など中国系氏名の人々、そして、金氏や朴氏など倭人系氏名(古代日本人)の人々混在する理由です。

また、李氏朝鮮(Rhee Family)と高麗(Go-ryo)は、中国の鮮卑族が建国した国でした。そうした経緯により、国家の人口の20%程度が中国の鮮卑族出身であり、統治者、貴族、一般市民を構成していた理由です。一方で、それ以外の、80%程度の「倭人系(日本系)の一族が、ほぼ全員奴隷(=奴婢)になりました。国家としては、極端に奴隷階級が多い社会構造でした。

尚、一部中国系氏名の一族も「奴婢(奴隷)」に混在していました。これは、唐の時代には、反乱(独立軍事クーデター)が多発しており、鎮圧された謀反人の家族は処刑か奴隷に転落しました。例えば、「安史の大乱」の首謀者だった「安禄山」の「安氏」でも、親族の多くが「奴婢(奴隷)」に落とされ、唐の皇帝一族が朝鮮半島へ逃げた際に、彼らも一緒に移動し、結果、倭人の奴婢(奴隷)に、中国人の奴隷が加わりました。唐では、政治犯の奴婢も多く、彼らを中国に残せば、復讐のために反旗を翻す恐れがあるので、半島へ連行し、監視下に置いていたといえます。

余談ですが、日本併合に徹底的に反対していた伊藤博文は長春で暗殺されていますが、犯人の氏名は「安重根」という「安氏」出身の人物でした。歴史の偶然かも知れませんが、「安禄山」の「安氏」との関係があったかも知れません。

李氏朝鮮(Rhee Dynasty)と高麗(Go-ryo)を建国した鮮卑族の李氏(Rhee Family)は、唐という大帝国の皇帝だった一族です。征服した「倭人」の奴婢(奴隷)を、その後も、数百年、「汚らわしいもの」として扱っていたようです。氏名による差別は、近年になっても続いていました。

「倭人」と同じルーツを持つ日本人に対して、韓国政府が、常にどこか「高慢」で「見下した態度」である理由は、こうした歴史的背景からかも知れません。

 

 

 

 

在日韓国人(南)、
在日朝鮮人(北)、

帰化韓国人(南)、
帰化朝鮮人(北)、

皆様に言いたい!

日本の敗戦後は、「李承晩の大虐殺により、日本併合で、日本人へ復帰した人々と、李氏朝鮮(Rhee Dynasty)の本家の皇太子と共に日本へ渡来た人々が、朝鮮半島へ戻れない状況が起りました。

皆様の先祖は朝鮮半島に戻りたくても、戻れなかった人々です。そうして、現在の「在日朝鮮人(北朝鮮系)」が形成されて行きました。
(韓国(南朝鮮)建国前)

 

韓国建国後、朝鮮戦争の休戦後は、韓国では、独裁からの脱却を目指し、市民や学生の民主革命(反乱)が全国規模で多発するなど、国内政治の情勢不安が起りました。結果、各地では韓国政府軍による「民間人の大虐殺」が継続していました。

結果、朝鮮半島から大量の韓国人が生き延びるために、日本へ密入国して来る事態になり、現在の「在日韓国人(南朝鮮系」が形成されて行きました。

(韓国(南朝鮮)建国後)

 

この当時、

大量の韓国人避難民の密入国を「許可」

帰化の優遇政策など「救済措置」

を決めたのは、

日本政府であり、自民党です。

更に言えば、結局は

日本の天皇陛下

 

 

在日朝鮮半島出身の人々、特に在日韓国人(南朝鮮)の人々が、生き延びて、今、この日本で暮らしていられるのは、日本政府と自民党が支援したからです。何より、天皇陛下のお陰です。

 

なぜ、あなた方「在日」は、「命の恩人」である日本に対して敵対するのですか?

日本政府や自民党は「味方」です。それを、まるで「親のかたき」かのように、常に反発を繰返している。

 

 

誰が、皆様の家族や親族を「虐殺」し「弾圧」したのか?

「李承晩」であり「韓国政府」ですよね?

 

その上で、

北朝鮮の軍事的な制圧による朝鮮半島統一に、

在日(Koreans)」に「嘘の歴史」を吹き込み

日本を軍事利用する為に

韓国政府は皆様利用してますよね

 

どうか皆様の本当の歴史を知って下さい。

騙されていることに気付いて下さい。