日本軍の圧勝の真相4ー滄州の陥落
昭和12年(1937年)8月8日に、無血開城にて北京を陥落した後、北西方向、南西方向、東南方向へ別れ、黄河の北部一帯の主要都市を占領下に置き、蒋介石政府軍の追出し作戦を展開して行きました。
昭和12年11月(1937年11月)発行 「歴史写真」 から
昭和12年9月(1937年9月)皇軍勇戦奮闘して滄州の堅を抜く
記事:
既に唐官屯、馬廠等續々敵の要地を攻略したる我軍は、折柄の霖雨に河水は氾濫し、泥濘は膝を沒するばかりなる戰場た、食糧の缺乏に苦しみつつも、強行進擊た續け、敵の必死の抵抗を排して、九月二十四日遂に滄州を攻略した。
写真:
寫眞の(右上)砲火に焼かるる滄州市街の遠望で、彼方に遠く城門の櫓(やぐら)が巨然として聳えてゐる。
(左上)皇軍今しも滄州に入城し、その西門城に立って萬歲を叫ぶ有樣。
(右下)九月二十四日、保定滄州前後 して我軍の占據するところとなるとの快報に、 天津に於て行はれたる祝賀の旗行列に、露臺に出でて親しく答體する寺內最高指揮官(左より二人目)
(左下)滄州城の前面にめぐらされし敵陣地の廣き水濠である。
注)聳える:そびえる
唐官屯と馬廠は、天津から滄州へのルート上にある都市です。このルートには、当時も、津浦線と呼ばれる鉄道が開通していました。当然、主要街道であり、この行軍は、黄河の北側から蒋介石政府軍を南部へ撤退させるという意味もありました。
写真拡大ー滄州に入城し、その西門城に立って萬歲
上記も、滄州入城と同時に陥落した、日本軍の圧勝の証拠写真です。
「歴史写真」には、こうした写真が何枚も掲載されています。日中戦争の我々日本人のイメージが覆るのではないでしょうか?
昭和12年11月(1937年11月)発行 「歴史写真」 から
昭和12年9月(1937年9月)津浦線に沿ひ皇軍矢続早の猛進撃
記事:
平漢線に沿ふて南下する皇軍と、左右並行して津浦線を猛進しつつありたる我軍は、既に唐官屯、馬廠等の要地を占據して何れも堂々南進。八月下旬、敵を滄州付近に追い詰め、今や一舉に滄州の堅城を屠らんとする姿勢を示した。
写真:
寫眞の(右上)滄州付近の敵陣地を砲弾を以て破壊し、その穴より進み入らんとする我軍。
(左上)滄州の前面なる敵のトーチカ爆破の爆薬作業。
(右下)馬廠河に於て軍橋架設中の我工兵隊。
(左下)一気に〇〇河を渡らんとする我が戦車である。
上記の右上の写真では、敵陣地の防壁へ穴を開けて侵入しています。蒋介石政府軍は少なくとも日本軍の数十倍以上の兵力でした。本当に戦闘状態であれば、敵陣地に並んで入るなど有得ません。陣地内に誰も敵兵が居ないなら別ですが、普通であれば、機関銃で応戦されかねません。一人でも敵兵が居れば、防壁へ穴から一斉攻撃されるでしょう。敵陣地には誰もいないか、居たとすれば「味方(反蒋介石派)」だったかでしょう。砲弾で爆破する必要があったのかと思うくらいの写真です。
北京と滄州の位置関係(Google Mapから)
昭和12年(1937年)9月24日に、上記図の保定と滄州を同日で陥落させています。北京からの距離からすると、滄州の方が離れています。悪天候など諸条件により行軍に時間が掛かったともいえますが、北京無血開城は8月8日です。8月中は、北京天津附近の都市部を占領下に置いたためかも知れませんが、北京周辺では、特に、実際には「戦闘など無かった」としか言いようが無い状況です。一方、保定と滄州の陥落は、9月24日です。単純に、行軍のペースが非常に遅いといえるでしょう。
当時、南部では、上海での「激戦」が続いていました。南部は蒋介石の本拠地ですので、蒋介石政府の正規軍(蒋介石派)との戦いもあり、上海の陥落には時間が必要だったでしょう。南側の進行状況に合わせて、ゆっくりな行軍だったのかも知れません。
保定は、馮玉祥の軍閥が蒋介石政府軍(支那軍)となっていました。滄州は、河北省ですが、山東省の北側に当たります。
保定は、中原大戦で蒋介石と戦争を起こした馮玉祥の軍事管轄地域でした。滄州は抗日戦争第5戦区と呼ばれる地域で、当時は、馮玉祥の直属配下の韓 復榘(かん ふくく)が軍事管轄していました。また、すぐ南の山東省(青島などある場所)は、李宋仁が軍事管轄していました。この李宋仁は、馮玉祥と同様、蒋介石に期待し「北伐」に参戦した広西派20万を率いていた人物でした。しかし、馮玉祥と同様、「北伐」後は、蒋介石に反旗を翻し、反蒋介石戦争(蔣桂戦争)を起こして戦っています。
その後、馮玉祥と閻錫山(えん しゃくざん)と共に、「中原大戦」でも蒋介石と戦っています。「中原大戦」は張学良が停戦を呼びかけ、馮玉祥と閻錫山がそれに応じ、それ以降、蒋介石政府側に付きました。李宋仁と張学良の関係は、「歴史写真」には記事がありませんが、張学良が停戦調停を行った際に、張学良により蒋介石政府軍に参入したといえます。Wikipedia によると、李宋仁は、日本軍との戦いでは「大敗を繰返した」ことで有名だったようです。
現在の歴史では、依然、「中原大戦」も、蒋介石が勝ったことになっています。蒋介石が勝ったのであれば、馮玉祥と閻錫山と李宋仁、蒋介石と戦争していた人物達が、なぜ、蒋介石政府軍に参入するのか、歴史に矛盾が生じていますが、中国近代史は蒋介石に有利になるよう「戦後シナリオ」が作られて、今も、そのまま信じられています。真実は、「歴史写真」の記事の通り、張学良が「停戦調停」を行い、自分の傘下へ引き入れたのです。
保定も滄州も、日本軍の到着とほぼ同時に陥落したのは、上記の様な経緯からです。
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日中戦争での日本軍の行軍と本当の歴史については、必ず、訂正されるべきと思います。このサイトでは、特に日本軍の行軍に関して、出来る限り多くの写真を紹介したいと思います。
歴史の専門家の皆様、研究家や愛好家の皆様に、実際に見て頂いて、歴史訂正活動にご協力を賜れれば大変幸甚です。