蒋介石とイギリスの真相

蒋介石とイギリスの真相

戦後の歴史認識では、蒋介石がイギリスと極めて密接な関係にあった事は殆ど知られていないようです。当時のイギリスは、「基礎編」でのご説明の通り、アジア大陸の植民地化政策を遂行していました。日本も江戸時代末期に、イギリスとフランスによる植民地化危機に遭い、大政奉還、明治維新と政治変遷をしています。日本は何とか乗り切りましたが、中国の清帝国は国内の大半が異民族である征服王朝でしたので、民族独立の機運は抑え切れず、植民地化政策が着々と進んでしまいました。

蒋介石は「中華民国」を「統一中国」とし、台湾へ追放後も、国名を「中華民国」に改め、生涯、その中国の正式な代表者を名乗っていました。蒋介石は、当時の中国にとっては本来最も大きな敵対勢力であったイギリスと手を組んで、中国の植民地化を推進していました。中国全土が植民地化すれば、日本の植民地化も時間の問題です。当然、当時のイギリスは日本にとっても最大の敵国でした。

一方、蒋介石とイギリスの関係は、その大元として、孫文がイギリスに南部漢民族の民主独立革命の革命資金の援助を求めた事に端を発します。孫文は、日本での亡命生活も長く、イギリスなどヨーロッパ諸国の脅威については少し理解はあったでしょう。そのため、南部で、南京政府を持って革命決起したものの、軍事資金不足から北部で「中華民国」を樹立した袁世凱には敗北してしまいます。日本への亡命、袁世凱の死後、本土復帰などを経て、南部政府と北部政府の平和的統一を図ろうとしますが、北京での会談の直前に亡くなってしまいます(暗殺)。

蒋介石は、孫文の時代は、政府ではなく、軍事学校の校長でした。孫文の死後、孫文の側近を次々と粛清し、南部政府の実権を握ります。そして、イギリスの軍事支援を背景に、北部政府を軍事鎮圧(北伐)し、中国統一を図ります。そのはは「中華民国」時代の中国の代表として独裁政治を展開していきます。

イギリスと南部政府の関係は、辛亥革命の頃からですが、孫文の死亡後は、蒋介石の政府を傀儡政府として中国の植民地化を進めていました。イギリス、フランスはじめ、当時、中国に進出していた欧米諸国の狙いは、中国北部や東北部の鉄鉱石や原油などの天然資源でした。イギリスは、中国の植民地化に、蒋介石を利用していたのです。

蒋介石の南部政府の財源だけでは、北部を制圧できるほどの軍備は確保出来ません。イギリスへ軍事資金と軍事兵器の支援を求めたことで、「北伐」も「中原大戦」も「中国共産党の撲滅」も行えたのです。単純に考えて、蒋介石政府にはイギリスに対して、返済不可能なレベルの巨額な軍事借款(借金)をしていました。蒋介石は、その多額の借金により、イギリスの言い成りにならざるを得なかったともいえます。この巨額な軍事借款が、中国全土が離反した最も大きな理由と言えるでしょう。

 

イギリス大使夫人と蒋介石夫妻

記事:(左上)蒋介石の対英米媚態外交の一面をさながら活写した写真で、手前後ろ向きはカー英国大使夫人、蒋介石、宋美齢、孔祥熙である。
   1936-1942年赴任 英国大使 :Archibald Clark Kerr

上記の写真は、一番手前が当時の中国のイギリス大使であったアーチボルト・カー夫人、蒋介石とその夫人である宋美齢、及び、孔祥熙(財務担当)の、仲睦まじい会食風景。

蒋介石夫人の宋美齢はアメリカ留学経験があり英語が堪能でした。インドの植民地化、中国でのアヘン戦争に至る経緯、その後の流れを少しでも把握していたのなら、当時の中国人がイギリス人と手を組むという事自体が異常事態といえたでしょう。イギリス人と手を組めば、一旦は政権を掌握しても、必然的に、中国全土が植民地化されるのは目に見えています。

中国では蒋介石がイギリスに取り込まれた為に、清帝国の帝政から共和/民主への単なる政治体制の交代で終わらず、中国国内での大きな内乱勃発や、日本を含むアジア周辺国家に甚大な損害を与える結果となりました。日本がアメリカと戦うようになったのも、蒋介石とその妻の宋美齢が、現在も残る南京大虐殺の証拠と言われる写真を手に、アメリカ中に「日本が侵略している。残虐行為を繰返している」と、大嘘を広めて周り、アメリカ市民に日本への憎悪を植え付けたからでした。

 

 

 

 

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