日本軍の圧勝の真相11-徐州への進軍

日本軍の圧勝の真相11-徐州への進軍

日本軍は、済南を占拠した後、更に、南下して徐州へ進軍を続けました。

昭和13年4月(1938年4月)発行 「歴史写真」 から
昭和13年2月(1938年2月)前線より非難する農民と姉人宣撫班の活躍

記事:

清浦線南下の皇軍は、既に濟南、濟寧を占據し、一方、揚子江岸より北上したる部隊は蚌埠、懐遠を攻略し、茲に南北相呼 して徐州附近の一
た殲滅せんとする體勢を示してゐるので、同方面の支那農民達は、戰禍を怖れ、皇軍の溫情に縋らんとして、續々避難りつつある。

写真:

寫眞の右ば、黄河のほとりに於て、避難民等、わが貨物車に移乘し、安全地帶に向はんとするところ。

又左上は最近濟南に於て沖端しつある姉人宣撫班 で、此の四人は孰れも行軍の精神に感激し、健気にも自ら志願して其任に就きたるもの、就中、右より二位目はリーダー各の李嬢で、嬢は半島生れの支那語に巧みな新しい一女性、今後の活躍は大に期待せられてゐる。

 

注)縋らん:すがらん

日本軍は、北部より南下していた軍隊と、南部の揚子江から北上していた軍隊と、徐州で合流し、徐州付近の都市部を占領下に置いていきました。張学良の8年近い、政府分裂工作の結果、当時の蒋介石政府軍の殆どが、反蒋介石派であり、同じく反蒋介石派の日本とは、実質味方同志での戦いでした。しかし、あくまで「戦争」ですので、実戦は回避出来ません。

現地の中国人の農民達を、徐州戦線が終わるまで、日本軍の貨物列車で避難させていたようです。


中国北部での徐州の位置

 

昭和13年4月(1938年4月)発行 「歴史写真」
昭和13年2月(1938年2月)津浦線に沿い敗敵追撃中の我が部隊

記事:

北支の戰線は、しばらく鳴りをの靜めてみたが、二月十一日、紀元の佳節を期して我軍は一齊に火蓋を切り、山西省に於ては、臨汾附近在の約三十個師、京漢線方面に於ては鄭州を中心とする約二十個師、清浦線方面に於ては徐州附近の約四十個師を向こうに廻し、近く驚天動地 の一大殲滅戰を展開すべく、全軍異常の緊張味を示してゐる。

写真:

寫眞は清浦線に沿 ふて敗敵追撃中の我軍で、此方面に於ては、山東省より南下したる一軍と、揚子江より北上せる一軍とが、南北呼應して徐州の大敵を屠らんと、勇氣凛然正に當るべからざるものが あるのである。

昭和13年2月21日、臨汾、鄭州、徐州付近で、夫々、残った敵軍(=蒋介石政府軍)の掃蕩を開始しました。蒋介石軍は、臨汾が30個の師団、鄭州では20個の師団、徐州は40個の師団です。

師団とは、軍事作戦の集合部隊であり、歩兵隊、迫撃砲隊、戦車隊、航空部隊、通信部隊、後方支援部隊など、他の部隊の支援なく、軍事作戦が可能な複合構成部隊のことです。現在の中国人民解放軍は1万人が師団の編成総人数です。蒋介石政府軍は、1936年の時点で、兵数275万人を誇る大軍団でした。30個師団で、30万人ということでしょう。

上記、山西は、閻錫山(えん しゃくざん)の軍閥が所轄していました。鄭州は河南省ですが黄河附近の都市です。隣の山西省の閻錫山の勢力と河北の直隷派の勢力圏に近い場所です。徐州は、当時、第五戦区で、李宋仁の広西派の軍閥が所轄していました。ちなみに、南京上海方面は、馮玉祥が司令長官でした。

閻錫山も馮玉祥も李宋仁も、中原大戦では、蒋介石と戦った人物です。初めから、蒋介石政府軍を乗っ取り、「中華民国」の奪回決起の際には裏切るつもりで、敢えて、蒋介石側へ寝返ったのです。日中戦争は、こうした元北京政府の軍閥や反蒋介石派の軍閥に支えられていました。中国全土で、日本軍が圧勝するのは当然です。

 

昭和13年4月(1938年4月)発行 「歴史写真」
昭和13年2月(1938年2月)津浦線蚌埠の占拠

記事:

揚子江岸より北上したる我が各部隊は、二月一日夜、激烈なる寒氣層に徹する中を物ともせず、敵の要地蚌埠を目蒐けて總攻擊を開始し、数千の敵を殲滅して翌二日正午頃 完全に同地を占據した。

写真:

寫真の(右上)我が先鋒添田部隊が今し芽瑠に入城しつつあるところ。
(左上)蚌埠戰に入る前、同じ津浦線上の明光に於て殲敵掃蕩中の添田部隊。
(右下)敵が無残にも破壊したる津浦線の鐵路に沿ひ北進しつ つある我が部隊。
(左下)占據したる蚌埠を俯瞰したるもの。

蚌埠は、南京と徐州の間の都市です。揚子江岸とありますので、日本軍は南京の対岸から徐州方面へ北上したようです。南京は前年12月に陥落し、蒋介石の独裁政府が潰滅。直後に、南京市民による新政府が成立し、復興に向ったので、揚子江の対岸から徐州へ北上を開始したようです。

当時、浙江省は第三線区で、司令長官は顧祝同という人物でしたが、馮玉祥を補佐していた様ですので、配下だったと言えるでしょう。「蚌埠戰」は、数千人の敵を相手にしていながら、一日であっさり陥落しています。顧祝同は、江蘇省の生まれであり、本来は蒋介石側の人間です。その人物が管轄する地域でも、日本軍が勝利していたという事は、当時、蒋介石は、本来味方だった政府要人にも「見切られていた」ということでしょう。

私が、蒋介石政府が自己崩壊していたと結論するのは、「北伐」や「共産党潰滅戦争」で自分の味方だった人々にも、反旗を翻されていたからです。顧祝同が、蒋介石側であれば、極めて劣勢の日本軍が勝てることは絶対にありません。

 

写真拡大ー蒋介石軍による鉄道の撃破

 

昭和13年4月(1938年4月)発行 「歴史写真」
昭和13年2月(1938年2月)二つの仮鉄橋成る

記事:

敵が退却に際して破壊し去りたる北支方面黄河及び雲河の鐵橋は、 我軍に於て不眠不休の努力を傾け、その復興を急ぎたる結果、二月上旬、それ假鐵橋(仮鉄橋)出來し列車の開通を見るに至った。

写真:

寫眞の一 (右)は、膠濟線雲河の 假鐵橋(仮鉄橋)を濟南に向って 走る列車。
(右上)黄河鐵橋內部の吊橋作業。
(左上)膠灣線開通式。
(左下)黄河新橋上を霧 進する處女列車である。

蒋介石政府軍は、撤退の際には、線路や鉄橋などを破壊していました。これにより、日本軍の進軍が相当に遅れたことは言うまでもないでしょう。しかし、水面下では味方である「反蒋介石派」が、敢えて、鉄橋などを破壊していた理由は、やはり、日本に負け続ける「反蒋介石派」の軍閥が、蒋介石を騙すためだったのではと考えます。また、日本軍の進軍が遅れることは、戦争が長期化することを意味します。一見、日本軍に不利な行動に見えますが、進軍を遅らせることで、蒋介石の独裁により荒廃した都市部を復興する時間を稼いでいたともいえます。日本軍との戦争中は、蒋介石は、直接、新政府に対して宣戦布告は出来ないからです。仮に、宣戦布告し、新政府と蒋介石政府との戦争となりますが、蒋介石に味方する中国人の軍隊は無いので、蒋介石には勝ち目はありません。その心理を突いて、時間稼ぎを兼ねていた可能性が高いでしょう。

 

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日中戦争での日本軍の行軍と本当の歴史については、必ず、訂正されるべきと思います。このサイトでは、特に日本軍の行軍に関して、出来る限り多くの写真を紹介したいと思います。

歴史の専門家の皆様、研究家や愛好家の皆様に、実際に見て頂いて、歴史訂正活動にご協力を賜れれば大変幸甚です。

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