日本軍の圧勝の真相2ー永定河の渡橋
昭和12年(1937年)9月には、保定方面へ進軍を開始し、まずは、北京の南側に流れる大河、永定河を渡りました。
昭和12年11月(1937年11月)発行 「歴史写真」 から
昭和12年9月(1937年9月) 永定河の敵前架橋と假り橋(仮橋)を難航する野砲隊
記事:
炎暑の次ぎに來る豪雨、北支の戰線は百三十度の酷熱から、忽ちにして襲ふ連日の大雨に、河川沼澤一時に汎濫し、水びたしとならいところは、 名物の泥濘が膝を沒するばかり、その中を進軍する将兵の難苦は、正に言語に絶するものがあるのである。而も勇猛果敢なる我兵は、克く此の難澁に打ち勝ち、一日一城を屠るの猛進擊に、忽ち敵の最重要根據地として難攻不落を誇りたる保定、済州等の堅城を攻略し、以て這次北支作戦の壓倒的成功を克ち得たのであった。
写真:
寫眞の(右上)平漢線に沿ふ永定河に於て、敵前架橋作業に從事しつつある我工兵隊。
(左下)津浦線に沿ふ某地點で、代工兵の架設したる運河上の假橋を進軍しつつある野砲隊である。
注)泥濘(でいねい):ぬかるみ / 難澁(なんじゅう):難渋 /地點:地点 / 假橋:仮橋
永定河には、相当大きな橋が架かっていたはずですが、橋が架かっていたはずですが、洪水で使えなかったのでしょうか?小舟を横付けに並べて仮橋を作るというのは良くあったようです。しかし、この写真の「呑気さ」は、とても戦時中とは思えない無防備さです。本当に「敵前」であれば、対岸から銃撃され即死でしょう。蒋介石政府軍は、空軍もあったのです。普通であれが、敵が河を渡る準備をしていたら、空爆に遭うところでしょう。
上記も、戦闘が「形式的」だったとする根拠の一つです。また、圧倒的成功とありますが、蒋介石政府軍との兵力差に加え、蒋介石政府軍は、軍事兵器も、イギリス、アメリカ、ロシアなどから輸入し最新鋭でした。日本軍が圧倒出来る理由がありません。
昭和12年11月(1937年11月)発行 「歴史写真」 から
昭和12年9月(1937年9月)我兵を歓迎する支那良民と寺内大将の現地到着
記事:
(右下)我に對して暴戻の限りを盡す支那軍は、自國の良民等の上にも、常にあらゆる惡虐た擅まにし、罪なき彼等をして審さに塗炭の苦しみを甞めさせてきたので、彼等は、その呪はしき支那軍が、日本軍のために小氣味よく擊滅掃蕩せられるのを見て、却て是た裏心より喜び、次ぎづぎに 我軍の占據する都市に於ても部落に於ても、日本軍の入城を、恰も救いの神を迎へたかのやうに歡迎するのである。寫眞は北支の某地に於て支那の老人連、日の丸の小旗をかざし、我が兵士をよろこび迎へつつある有樣。
(左上)教育總監陸軍大将寺內壽一氏は、此のたび北支方面活躍の我軍最高指揮官に任ぜられ、某月某日現地に赴いた。寫真は寺內大將が今しも某驛に到着したる有様である。
上記も、日本が「中国侵略した」のであれば、中国の一般市民が手に日本の国旗を以て出迎える状況など起こり得る訳がありません。支那軍とは、蒋介石政府軍のことです。中国共産党の軍隊ではありません。
歴史写真では、蒋介石の独裁については詳細記事はありませんが、上記の記事の通り、実態は、恐怖政治に近かったのではと考えます。政府というより、民衆が相当に苦しんでいたのでしょう。
昭和12年11月(1937年11月)発行 「歴史写真」 から
昭和12年9月(1937年9月)愛すべき支那農民
記事:
日本軍に追はる る支那軍は、その退却に當り、掠奪暴行の限りを盡(尽)し、彼等の過ぎゆくところ、 颶風や洪水に襲はれた跡の 如く、家々の財貨は悉く強奪されて、恰も空家のやうになるのが常である。かくして家を追はれ財を奪はれた支那人達は、支那軍の逃げ去ったあと、堂々として進み來る日本軍に對し、救ひの神を迎ふるやうな信賴の念を以て、是を歓迎し、 或は速製の日章旗を打振り、又は食料品を探しあつめて、心から接待の限りを盡(尽)すのである。
写真:
寫真は津浦線に沿ふ〇〇に於て、我軍 將士にお茶の接待をする支那農民である。
注)颶風(ぐふう):つむじ風のような激しい風、暴風雨の総称 / 信賴:信頼
南部の蒋介石政府は、北部政府と違い、天然資源など十分な政府財源が無く、軍事費は全て外国からの借款、軍事兵器は輸入でした。政府財源を補うため、一般市民から搾取や略奪なども起きていたようです。
北部では、日本軍は基本的に「味方」と戦っており、撤退する蒋介石政府軍が、民家が空き家同然になるほど掠奪暴行の限りを盡(尽)していたかは不明です。逃亡し、投降か捕まり捕虜となった後は、そのまま新政府軍になる人材でした。そのため、日本軍は、投降兵は積極的に受け入れ、また、捕虜とは、一緒に餅つきをするような友好的な関係だったようです。
一方、南部では、蒋介石の正規軍の直接支配を受け、撤退の際には、上記の様な横暴非道な行為が繰り返された可能性は非常に高かったといえます。そうした状況が無いと、上記のような写真が残っている理由がありません。南京大虐殺の証拠とされる写真には、政府軍の略奪行為に抵抗し「口封じ」で虐殺された人々もいたかも知れません。
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日中戦争での日本軍の行軍と本当の歴史については、必ず、訂正されるべきと思います。このサイトでは、特に日本軍の行軍に関して、出来る限り多くの写真を紹介したいと思います。
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