南京大虐殺の真相

南京大虐殺の真相

当時の歴史写真を検証した結果として、南京大虐殺事件は起きていません。南京大虐殺事件は、戦後、蒋介石により捏造された事件です。蒋介石が、中国での復権のため、南京など中国各地で行った虐殺、強姦、略奪といった卑劣な残虐行為を、全て日本がやったことにして、自分の悪行を隠ぺいしたのです。当時は、中国は「中華民国」時代であり、現在の中華人民共和国を樹立した中国共産党とは政府が異なります。当然、日中戦争時代に(北伐後)、蒋介石政府がどれほど中国市民に圧政を強いていたかは、現在の政府には記録も情報も無いでしょう。

当時、中国共産党は中国北西部の西安方面を本拠地としており、中国東南部の南京については何も知らなかったはずです。だからこそ、蒋介石からすれば、南京であれば、「虚偽の事件」を捏造するには都合が良かったといえます。日本には実際に「占領した」事実はあります。「歴史写真」の記事に、南京陥落後に入城した際、「8万4千体の遺棄死骸」が放置されていたという記録(事実)もあります。これらを使えば、いくらでも虚偽の被害をでっち上げられたでしょう。仮に、一般市民が、反論したとしても、蒋介石の統治下であれば、即、銃殺です。日本の全面撤退後、蒋介石はアメリカ軍を引き連れ南京に戻りましたが、中国共産党が奪回するまでは、実質的に、恐怖政治であったと考えます。

東京裁判での侵略嫌疑の取下げと南京大虐殺事件

東京裁判では、日本に対する「訴因28-中国侵略(Invasion of China)の嫌疑」は取り下げになりました。当時、アメリカ、イギリス、フランスなど連合国は、日本が中国を侵略していない事を認めていました。それにも関わらず、蒋介石が南京大虐殺事件を捏造し、南京に日本兵3名を連行し、強引に有罪にしたのです。日本兵らは無実を訴えて獄中自殺しました。

日本兵らが自殺しなかったとしても、蒋介石に強引に処刑されたでしょう。日本兵を複数名連行した理由は、犯人がたった一人では説得力が無かったからでしょう。蒋介石は、無実の日本兵らを殺して口を封じ、南京大虐殺という捏造事件を世間に広めたのでした。日本は敗戦国でした。国家壊滅寸前の状況であり、日本は冤罪を着た兵士らを守れませんでした。その状況を理解していた彼らは、日本が抗議に出る前に、自ら死を選んでしまいました。裁判で公式に有罪の判決が出ることは、日本の将来にとって大きな不利益だと理解していたのでした。この時、彼らが過酷な拷問を受け、執拗な冤罪自白を強要されたことは言うまでもありません。

アメリカが日本と戦った原因は、蒋介石がアメリカを騙したからでした。蒋介石は、「日本が中国を侵略し、中国人に残虐行為を行っている」とアメリカ大統領とアメリカ市民に訴えたのでした。結果、アメリカは日中戦争(Japan-China War)に参戦したのです。

しかしながら、東京裁判では、裁判が開かれる以前に、「侵略の嫌疑(suspicion of invasion」そのものが取下げられました。この時点で、既に、蒋介石が大嘘を吐いたことが発覚したといえます。アメリカは、日本に対し甚大な被害を与えた後でした。今更、アメリカは自分が間違いを犯したとは世界に公表出来ませんでした。

一方で、蒋介石にとっても、「侵略嫌疑取下げ(the withdrawal of suspicion of invasion )」は隠蔽する必要がありました。そのためには、日本が中国に対して残虐行為を行った「既成事実」を作る必要があったのでした。これが南京大虐殺という捏造事件が生れた真相です。

南京攻略はたった4日間(入城と同時に陥落)

南京攻略は、昭和12年(1937年)12月10日から12月13日の4日間でしたが、南京の東側の中山門の突破が12月13日であり、入城と共に南京は陥落されています。南京に残った蒋介石政府軍は10万ほどでした。これらの事実から解るように、「戦闘」だの「激戦」といえる状況は実際には無かったのです。一応、門は破壊したものの、北京と同様に、南京も「無血開城」だったといえます。

翌日の12月14日には、南京の一般市民による新政府(臨時自治委員会)が成し、これを国内外に発布するため祝賀式典も執り行われました。大量の一般市民が日本国旗を手にして、新政府祝賀の会場へ向かっている写真もあります。日本軍は、行列の誘導と警備で大量出動していました。

蒋介石と妻の宋美齢は、日本軍が南京へ到着する10日程前には、首都南京を捨てて逃亡しています。自分達を捨てて逃げた蒋介石のために、残った兵士が首都南京を守っても意味がありません。当然、蒋介石派の正規軍は共に移動するか、軍隊を捨てて逃亡したでしょう。南京に残っていた蒋介石軍は、ほぼ全て、「反蒋介石派の兵士」であり、必然的に、「日本軍の味方」でした。これが12月13日の城門突破と同時に南京が陥落した理由です。

蒋介石政府からは、22棟の収容施設が、収容限界に陥るほど、大量の兵士が投降し、その収容施設の手配、準備、誘導、軽微でも大量出動し、負傷兵や傷病兵は病院で手当てや、南京での戦いでの避難民へ避難所の確保や食料の配給も必要です。南京の城内の治安回復に、警察の代わりに巡回する人員も必要です。成立したばかりの新政府では、即日で、そこまでの対応は不可能だからです。

昭和12年(1937年)12月16日までには、上海で行軍パレードを終えた日本軍の後続隊が到着したものの、12月17日の南京入城式と12月18日の慰霊祭の準備で全員が手一杯だったでしょう。

この状況で、日本軍が、なぜ南京の一般市民や投降兵を大量に惨殺する必要があるのでしょうか

どう考えても有得ません。

 

昭和13年4月(1938年2月)発行「歴史写真」から
昭和12年12月(1937年12月)-支那事変写真 南京入城式と慰霊祭

写真:

(右上)上海に於て、日支兩軍戦闘開始以來、百有余日、輝く南京攻略まで、勇戰奮闘、護國の鬼と化した我が海陸の勇士を祀る慰霊祭は、一二月十八日、南京城内嵌宮飛行場に於て、いと厳かに興行せられた。写真は当日参列の、右より〇〇中將、松井最高指揮官、長谷川司令長官。

(左上)十二月十八日、南京に於ける海陸合同慰霊祭に、松井最高指揮官の声涙共に下る祭文朗読である。
(右下)同じく慰霊祭場の全景。
(左下) 十二月十三日、我軍既に南京城を攻略し、残敵を掃蕩すると共に、戦場の整理一段落を告ぐるや、松井最高指揮官、〇〇中将、長谷川艦隊司令長官以下、海陸の將士堂々入城式を興行した。写真は当日中山門を入り來る我が步兵部隊である。

 

上記は、昭和12年(1937年)12月18日に、嵌宮飛行場にて行われた慰霊祭の記事です。場所が飛行場になっています。当時の日本軍は、基本的に遺骨を日本へ持ち帰っていました。また、持ち帰れる程度の人数だったので、都市部の南京であれば、敢えて、飛行場で、ここまでの「大規模な慰霊祭」を行う必要も無いといえます。

しかし、この「飛行場での大慰霊祭」の記事を「歴史写真」に掲載すれば、私と同様、この時、8万4千体の遺棄死骸が飛行場に埋葬されたと思う人々もいたでしょう。もちろん、「日本軍の戦死者の慰霊祭」ですし、偶然、飛行場だっただけかも知れません。ですが、この「歴史写真」という雑誌は、写真が中心であり、当然日本語の解らない「外国人(欧米人)」への情報発信を意図し、日本側からの情報発信や情報操作に使われた可能性もあります。上記の記事では、8万4千体の遺棄死骸が飛行場に埋葬された印象は与えることが出来るでしょう。

「8万4千体の遺棄死骸」は、あくまでも「言われている」であり、本当に事実かは不明です。実際に戦闘があったとしても、日本軍の実質1日か半日の攻撃で、それ程の戦死者が出るとは考えられず、12月14日は新政府の式典、上海からの本隊軍(後続隊)の到着が15日か16日で、17日は日本軍の南京入城式です。8万4千体の遺棄死骸を埋葬するには時間が全く足りませんし、冬場とはいえ、そのように大量の遺棄死骸を城内に放置したまま、南京入城式を執り行うのも、日本人の感覚からすれば非常に不可解です。

私が、南京攻略で述べた様に、蒋介石政府軍の10万の兵士の大半を捕虜にせず、「戦死扱い」にして、そのまま解放した可能性は非常は高いです。そう仮定すれば、上記の、昭和12年(1937年)12月18日、南京入城式の翌日の「大慰霊祭」は「大量の戦死者の既成事実」を作るという点で大きな意味と効果があったかも知れません。

 

遺棄死骸が8万4千体の理由

南京攻略では、入城後、南京城の内外に8万4千体の遺棄死骸が放置されていたとされています。南京城に残っていた蒋介石政府軍は10万人でした。以下の写真は、南京入城式が執り行われた12月17日の新聞記事ですが、捕虜が大量で22棟に鮨詰め状態=収容オーバーだったとあります。仮に1棟で1000人を収容したとすると、単純計算で、22棟で2万2千人です。一方、遺棄死骸は8万4千人です。4千人の差はありますが、1000人を100~200超していたとすれば、大体、数が合います

2万2千人の捕虜の食費は、日本軍の食費より多かった可能性があり、以下の新聞に「食糧難が苦労の種」とあるように、数日でも財政的に厳しい状況だったため、収容できない人員については「戦死扱い」で無罪放免にしたのでしょう。以下の新聞が、そう考える根拠です。

8万4千人は「戦死扱い」で無罪放免にし、新政府の政府軍で吸収したということでしょう。 都市部で大量に処刑などを行えば、遺体の埋葬で多くの人員と費用が掛かります。そもそも、南京陥落では、捕虜を処刑する必要も理由もありませんでした。日本軍は、ただでさえ少数であり、行事予定と復興作業が詰まっている状況でした。南京全体が、新政府成立により「祝賀モード」であり、日本軍も、入場パレードや慰霊祭がある状況でした。もし仮に処刑の対象となるような捕虜がいたとしても、一旦、祝賀モードが落ち着いてからに延期したでしょう。



昭和12年(1937年)12月17日、南京入城式の日の新聞記事


昭和13年4月(1938年2月)発行「歴史写真」から

昭和12年12月(1937年12月)-支那事変写真 仁義に篤き我が将士

蒋介石政府軍の投降兵は、新政府の政府軍の貴重な人材です。余りに大量だったため、病院も満杯で、床に布団を敷いて収容したようです。

 

 

南京大虐殺という虚偽捏造事件

南京大虐殺があったとする証拠の写真には、「無残に殺害されている複数の遺体」や「兵士が捕虜を河原に引き連れている写真」や「川辺に無惨に遺棄された死骸」など、見るからに惨たらしい惨劇が記録されています。TV報道では、日本軍が「夜中」に捕虜を河原に連れ出し、銃殺し、死んだか確認するために、ライフルの先端に付いた突起部分で、遺体を刺して回ったとされています。TVの報道番組では、12月12日か13日に、そうした大量虐殺が行われたとされていました。

12月13日は、午前3時にようやく城門突破し、午前中に南京に入城しており、それ以前は城内に入れていません。南京の都市は、以下の写真の通りで、当然、捕虜は、ほぼ全員、城内にいての戦闘ですから、捕虜は捕まえようがありません。翌日12月14日は、南京では、南京市民による新政府が成立しています。この状況で、日本軍が、捕虜を大量虐殺、それ以前に、不当な銃殺などを行えば、22棟に入り切れない程の捕虜が反乱を起こしたでしょう。10万近い兵がいたのです。日本軍は確実に全滅していたでしょう。

南京大虐殺事件は、虚偽捏造事件ですので、こうした歴史の真実と照合すれば、「有得ない」という結論で当然です。

 

Wikipediaより南京の城壁の写真(明の時代)

出展:Brady Montz – What Nanjing looked like in the Ming DynastyUploaded by MtBell, CC 表示-継承 2.0,    https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=26693653による

以下の写真の左下が中華門。右端が中山門(朝陽門)です。日中戦争時代も、城壁など都市の構造は、ほぼ同じだったでしょう。

テレビの報道では、「夜中に捕虜を河原へ連れ出し」たそうですが、揚子江に死体が放置されたらしいのですが、城内から河原まで移動するとしても、南京は非常に大きな都市です。捕虜の収容所は、当然、城内ですので、河原まででも「大移動」です。

南京の城内で、不当な大量処刑を行い、日本軍の10倍近い蒋介石政府軍と40万人は居たであろう南京市民が反乱を起こせば、南京には日本兵はせいぜい1万人程度しかいませんでしたし、更に少数だった可能性もあります。夜間に奇襲を掛けられれば、簡単に壊滅します。そもごも、本当に戦闘があったのなら、日本軍が南京を陥落出来るはずもありません。テレビ報道のような事実は有得ません。

また、12月14日には、南京で新政府が成立しています。蒋介石政府軍であったとしても、新政府にとっては「自分達の国民」です。12月14日以降は、日本軍の捕虜であっても、新政府の管理下であり、日本軍が捕虜に対して「勝手な行動」を執ることは有り得ません。蒋介石政府軍からの投降兵(捕虜)は、新政府の政府軍になる貴重な人員だったからです。当然、新政府の政府軍は、日本の味方になる軍隊です。

南京新政府は、日本の支援で成立しています。非常に友好的な関係だったのは、以下の写真の通りです。
将来的に貴重な戦力となるだろう「捕虜」の大量銃殺など絶対に有得ません。

昭和13年2月(1938年2月)発行「歴史写真」から
昭和12年12月(1937年12月)-支那事変写真(其五)-南京に春立ちかえる

 

 

幕府山事件


以前「南京大虐殺の真相」ブログの読者の方より、以下のような大変貴重なメールを頂きました。


「「南京大虐殺があったとされる1937年12月13日」と書かれているのが何のことか分かりません。歩兵第65連隊の山田支隊がやったといわれる捕虜大量処断幕府山事件)のことだとするなら日が間違っています。昭和12年(1937年)12月16日、17日です。」

 

テレビなどでの報道では、「南京大虐殺事件」は、昭和12年(1937年)12月12日、13日、14日とされていました。一方、上記のご指摘では、南京大虐殺事件とは、12月16日と17日の、歩兵第65連隊の山田支隊による捕虜大量処断(幕府山事件)のことを言うとのことです。

昭和12年(1937年)12月12日、13日、14日については、これまでのご説明でも明白な様に、そのような虐殺事件が発生する条件がありません

また、12月17日は、南京の入城式で、音楽隊が先陣を切る様な大規模で荘厳なパレードでした。当然、この日に、歩兵の一隊(多分10数人程度)が勝手な捕虜の大量処刑など絶対に有得ません。

12月15日は、南京新政府の成立の翌日です。ここで日本軍の、それも単なる歩兵の小隊が捕虜の大量虐殺などやれば、歩兵小隊が全員銃殺でしょう。残る12月16日についても、上海方面からの後続隊の到着があったでしょうし、翌日の17日の南京城の入場パレードと18日の大規模慰霊祭の準備があり、どうして、この状況で、単なる歩兵隊に、勝手な大量処刑が許されるのでしょうか?

当然、この歩兵第65連隊の山田支隊による捕虜大量処断(幕府山事件)も、蒋介石による捏造事件です。蒋介石は、日本軍に南京を陥落された歴史は何としても残したく無かったため、「日本軍が惨敗して、逃亡した」という話にしました。

そのまま、現在の一般的な歴史理解になっていますが、「逃亡した兵士」が虐殺行為を行ったことにする必要があり、この事件でも、「歩兵」がやったことになっているのです。

ここまでのご説明の通り、日本軍は圧勝でしたし、12月17日は、南京の入城式で大パレードもありましたから、単なる歩兵の一隊が、こうした状況で、勝手に捕虜を連れ出すことも不可能ですし、歩兵が勝手に城外へ出る状況もありません。日本が惨敗したという嘘に基いて、こうした嘘の虐殺事件をでっち上げたので、実際に起きていたこととは完全に矛盾するわけです。

 

ちなみに、このサイトの制作者である今井貴水(Kisui Imai)の誕生日は、12月16日す。

 

自分の生まれた日に、日本人が中国人を大量に殺していたなどと、世界中に「有得ない大嘘」が情報拡散されており、個人的にも、「もう本当に勘弁しして下さい!」という思いです。

 

幕府山事件(捕虜の大量処刑)結論としては、

 

昭和12年(1937年)12月16日、17日の幕府山事件(捕虜の大量処刑)も、当然ですが、有得ません。

 

このような事件が発生する状況と条件がありません。

 

 

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中華人民共和国の政府と国民の皆様へ

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恐れ入りますが、当時の歴史資料(日本中国へ流通していた月刊誌)の事実を検証しますと、南京大虐殺事件は、どう考えても「起きていない」としか結論のしようがありません。

 

日本は、中国から排斥された蒋介石と戦っており、現在の中国にいる方々とは本来は「同志」であり、蒋介石とは敵対関係だった当時の中国共産党とも、水面下では「同志」でした。

日本は、蒋介石(イギリス)と戦っていました。当然、イギリスと敵対していソビエト(ロシア)とも水面下で協調関係でした。中国共産党は、日本にとっては「軍事衝突は回避すべき相手」でした。日中戦争当時は、張学良が中国共産党を味方に付け「国共合作」の後でしたので、蒋介石からの分離独立には、他の地域と同様に、「日本軍が占領する戦略」で動いていました。

 

現在の一般的な日中の歴史は、蒋介石に有利なシナリオで作られたものです。

 

「本当の歴史とはかなり異なる」としか言いようがありません。

 

南京大虐殺事件は、まさにその典型的な例です。

 

このサイトは、中国と仲良くしたい私の個人的な思いで製作しております。

 

それが、こともあろうに、自分の誕生日とその前後に、「南京大虐殺」のような事件が起きたとされている事は、非常に悲しいものがあります。

 

怒られそうで、中国の人に自分の誕生日を言えません

 

どう考えても、当時の歴史き事実を見れば、そのような大量虐殺や大量処刑は起きていません。

 

また、そもそも起きる理由や状況がありません。

 

こうした蒋介石の「置き土産」=「紛争の火種」に、いつまでも翻弄されず、中国と日本がより良い友好関係を築けるよう、南京大虐殺事件については、誤解を解いて頂けないでしょうか

 

私のこんな願いを書いたからと言って、叶う訳もないのは承知の上ですが、

 

南京大虐殺の歴史は本当にご訂正頂きたいです。

 

何とかして頂けないでしょうか?

 

 

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