日本軍の圧勝の真相12-徐州攻略の前戦
徐州の攻略では、北京方面から南下した部隊と、南京方面から北上した部隊とが合流しました。徐州は、中支那、即ち、中国の黄河(北)と揚子江(南)に挟まれた地域の真ん中辺りにあります。1937年12月に南京陥落後、日本軍は、揚子江の対岸の浦口から津浦線に沿って北上しました。別の部隊は、南通から北上し江蘇省の各都市を巡ったようです。上海南京方面への日本軍の派兵は、3万5千人程度であり、各地へ分散していました。Wikipediaによると、徐州攻略では、日本軍は21万6千人となっていますが、そもそも南支那全域で3万~3万5千人程度しか派遣出来ていませんでした。どこから21万という話が出たのか不思議です。
日本軍の進軍-図
昭和13年7月(1938年4月)発行 「歴史写真」
昭和13年5月(1938年2月)蒙城の占拠
記事:
蒙城は徐州の南、安徽省の西北部にある支那軍の重要據地で人口五千の小市街であるが、敵は此處に一萬有餘の大軍を集結し、近代的防禦陣地を構築して、頑強に抵抗した。我軍は五月八日の夜より完全なる包圍體形を整へて猛攻撃を開始し 翌九日早朝疾くも是を占據 頑敵を殲滅したのである。
写真:
寫眞の(右上)南門上より殘 敵掃蕩中の我が部隊。
(右下) 破壊せられた城壁上の萬歳。
(左)見る影もなく打 ち砕かれた南門より、堂々入城せんとする我が戰車隊。
蒙城では、蒋介石政府軍は1万人の大軍を集結したようです。しかし、ここでも、日本軍は5月8日の夜から攻撃開始後、たった一晩で陥落し、占領したとあります。当時は、蒋介石政府軍は李宗仁がを率いていました。この戦いも、実質、戦闘はなかったと言えるでしょう。
写真拡大ー蒙城の城壁上の日本軍の萬歳
敵の蒋介石軍は1万だったようですが、蒙城は小都市ですし、もしかすると、日本軍はこの写真に写る兵士達で全員だったかも知れません。
昭和13年7月(1938年4月)発行 「歴史写真」
昭和13年5月(1938年2月)決死、敵陣を衝かんとす
記事:
四十五萬の大敵を向に廻し、寡兵克く足を包園して戰史空前の一大殲滅戦を展開せんとする皇軍必勝の意氣。
写真:
寫眞の(右上)徐州を望 んで北上する我が〇〇部隊 の勇士達、懷遠附近の山地帶に於て、岩盤の上を勧ひ上り、今や一舉に敵陣に殺 到せんとする有樣。
(左上) 同じく夏草生ひ茂る濕地帶を匍匐して、敵陣に肉迫せ んとするところ。
(右下)敵の潜伏せる民家の土壁を破り一気に突入する戰車。
(左下) 敵前二百米、突擊の機會を狙ふ我が勇士達である。
上記の記事の通り、徐州では、蒋介石政府軍は45万だったようです。それ以外、蒙城は1万。懷遠でも相当な数の兵がいたといえるでしょう。日本軍は、他の地域と同様、徐州へ北上するルート上でも、都市を次々に占拠していったようです。上記の記事では、蚌埠市の北西にある懷遠での戦闘について書かれています。
済南からの南下ルート
昭和13年7月(1938年7月)発行 「歴史写真」
昭和13年5月(1938年5月)難路を突破する輸送部隊
記事:
進擊又進擊、占據又占據 かくて皇軍の勢力範圍は 日と共に大せられ、是に伴う輸送部隊の活躍區域は盆々増大されてゆく。 而も随所に頻發する行路の難を突破して進む將士の苦労と努力とは洵に涙ぐましいものがある。
写真:
寫真の(右上)徐州を目指し て南下する自動車隊が、蜿蜒長蛇の陣を張り、途上の川を押渡る有様。
(左上) 分捕りの驢馬を使っ て。
(右下)幾十臺のトラ ツクを連ねて堂々前線に 向ふ我が部隊。
(左下)破 壊された道路を修理して 前進する自動車隊である。
南下ルートは、北京⇒天津から済南に南下する部隊と、北京から石家庄を抜けて南下する部隊があったようです。
昭和13年7月(1938年7月)発行 「歴史写真」
昭和13年5月(1938年5月)朝に一城、夕に一塞
記事:
皇軍の向ふところ草木もなびく。
写真:
寫真は即ち我軍の鎧袖一丁觸脆くも陷りたる敵城の數々で、
(右上)我が南下部隊が津浦線上の重要據地胡山を拔いて揚ぐる喊聲。(左上)蒙城の北、四戸村を占據し、今や城門を入らんとする我軍。
(右下)我が南進部隊が台兒莊の東北蘭陵鎮を占據し、激戰を物語る廢墟の街に自動車を乗入れた る有樣。
(左下)同じく台兒莊の東、 山東省南端の重要據地郊城を占據し その南門を警備する我が哨兵である。
日中戦争では、日本軍は、30万、40万もの大軍隊が相手にも関わらず、毎日、一城(=一都市)を陥落、占領しながら、中国を巡っていました。日本軍が強かったのではなく、蒋介石の独裁に、中国全土が反旗を翻していたからです。蒋介石に少しでも賛同している人々がいたのであれば、数日での陥落など有得ないからです。
上記の記事からも、日本軍が圧倒的な勝利を続けていたことが解ります。
日中戦争は、北支事変、第二次上海事変、南京攻略、北京と南京での新政府樹立を経て、中国本土全体に拡大して行きました。日本軍の動向としては、中国全土から蒋介石政府軍を消滅させる目的で動いていたといえます。
徐州攻略(徐州会戦)では、蒋介石政府軍は李宗仁が50万の大軍を率いて、日本軍を待ち構えていました。しかし、この時既に、蒋介石政府軍の「軍閥」は、ほぼ全て反北部政府側へ寝返っており、蒋介石は、首都南京を失い、武漢、重慶と逃亡していました。
李宗仁は、かつて蒋介石と戦争をした間柄です。徐州での会戦の前には、周辺での軍事衝突も多数勃発していました。日本軍は、南北から徐州を目指しましたが、兵力的には全軍で3万にも満たなかったのでは無いでしょうか? 普通に戦えば、全滅です。しかし、既に崩壊した蒋介石政府に、李宗仁が従う必要もなく、結局、自ら撤退し、徐州は日本軍にあっさり攻略、占領されました。
李宗仁、張自忠、劉峙、湯恩伯、孫連仲など、蒋介石政府軍の司令官だった人物はほぼ全員、かつて「反蒋介石戦争」に参加した人々でした。南京攻略では、蒋介石政府軍は10万程度でした。その数か月後に、南北の中間地点である徐州で、蒋介石政府軍50万の兵士と日本軍が戦闘し、日本軍が圧勝したのです。