日本軍の圧勝の真相5-石家庄の陥落

日本軍の圧勝の真相5-石家庄の陥落

昭和12年(1937年)10月は、保定より更に南下し、石家庄(石家荘)を占拠しました。この辺りも、馮玉祥の軍事管轄でしたので、楽々、入城だったはずです。

また、河北(華北)5省を平定し、蒋介石政府からの分離独立を達成しました。この段階で、北京では、治安維持会として、臨時の自治政府が成立しています。日中戦争に入る前に、既に自治独立運動が起きていた地域です。蒋介石政府の統治下では、自治政府の成立は至難の業でした。「北支事件」という「軍事衝突」が起きる程でした。日本軍の場合は、占領と同時に、即日、自治政府が成立です。日本という外国の占領下で、ほぼ即日で、自治が認められていたのです。要は、日本軍は占領はしたが、侵略はしていないのです。

北支自治運動の真相2- 北支事件 参照

臨時でも自治政府の成立とは、「日本が独立を承認」していたのと同じです。

北支自治運動の真相3- 北支那の自治宣言 参照

日本軍は北支全体で3万程度であり、首都の北京や貿易拠点の天津の警護に数千人~1万は最低でも必要だったでしょう。それ以外の兵士が、鉄道路線に沿って各地に分散して進軍していました。各地では、都市の占領後、直ぐに、治安維持会を成立させ、日本軍が治安隊(警察の役割)をしなくて良いようにしていました。しかし、各地へ残る人員も必要だったといえますので、数千人どころか、多くて数百人か、下手すると数十人で各都市を巡っていたようです。

昭和12年12月(1937年12月)発行 「歴史写真」 から
昭和12年10月(1937年10月)河北の堅壘(塞)続々占拠す

記事:

河北に於ける我が進擊は正に疾風迅雷雷ならず、京漢線に沿ふ堅城續々占據せられ。黄河以北の地、今や殆ど敵影を見ざるに至った。

写真:

寫真の(右下)河北省の南端、西に山西、南に河南の兩省と接するところ、順德縣城に入城する我が坂西部隊。
(左上) 定州、新樂、正定を陥れたる我が部隊は、更に十月初旬石家莊を占據した。寫眞は其地に於ける戰ひの跡。
(左下)十月四日、定州の西、曲陽縣城へ入城の我が部隊。
(右上) 正定縣城內 に、早くも治安維持會成立し、日華提携の街頭演說に出掛ける要人連である。

徳縣城は、内モンゴル西部方面の都市です。定州、新樂、正定は、保定城から南下するルート上の都市です。曲陽へは、保定から石家庄の途中にある定州という都市から、西方へ分かれて進軍したようです。

写真拡大ー正定縣城の治安維持会の成立 (地名:正定縣=定縣)

日本軍が到着した段階で、都市は陥落、占領下でした。直後に、警察の代わりとなる治安維持会が発足。これにて、蒋介石政府の統治下から正式に離脱完了。どの都市も、日本軍を待っていたかのような対応ぶりです。

蒋介石とイギリスに付けば、やがては植民地化になることを、中国人も日本人も良く理解していたからでしょう。日本と中国が提携することが、日本と中国、両国にとって、生き延びる道だったのです。

 

写真拡大ー曲陽縣城への日本軍の入城

上記の曲陽という都市は、石家庄へ向かう本隊と別れて西方へ進軍した部隊が向かった様です。旗を持っている人物が、多分、軍隊の先頭と思いますが、兵士の列は城門の中までです。50名ほどの小隊のようです。曲陽という都市は、秦代からの都市のようで、Wikipediaによれば、現在は人口55万人の大都市です。当時の人口を、3分の1としても、15万以上です。普通に考えれば、50名で進軍など問題外です。5000人規模の軍隊でも、城内の市民がゲリラ化すれば、陥落出来たとしても1ヵ月は掛かるでしょう。それを、即日、陥落です。

日本軍は、各都市に分散して、占領下に置き、治安維持会(自治会)の成立を行いました。治安維持会の成立を日本が認めている段階で、日本からは独立を承認しているのと同様です。蒋介石政府の保安隊(警察隊)を排斥したのですから、都市の治安がある程度の正常運営まで、日本軍が治安維持隊の役割を担う必要もあったでしょう。中国は非常に広く、都市の数も大量です。日本軍の兵士数では、圧倒的に足りなかったといえます。小さい都市など、50名以下で巡っていた場所も少なく無かったと思います。

 

日本軍の進軍ー昭和12年9月時点

昭和12年8月8日の北京無血開城の後、翌月からは、北京から、北西、南西、東南の3方向に分かれて、北支全土の平定(蒋介石統治下からの脱却)に向いました。

上記の図は、南西、東南方面を示しています。南西の石家庄へ到達した部隊は、その後、太原方面へ進軍。東南の徳州へ進軍した部隊は、その後、済南方面へ進軍したようです。

 

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日中戦争での日本軍の行軍と本当の歴史については、必ず、訂正されるべきと思います。このサイトでは、特に日本軍の行軍に関して、出来る限り多くの写真を紹介したいと思います。

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