日本軍の圧勝の真相9ー北支ー青島の占領

日本軍の圧勝の真相9ー北支ー青島の占領

南京陥落の翌月、昭和13年(1938年)1月北部方面では青島(チンタオ)を奪回しました。青島は、以下の地図(Wikipedia 青島より)を見れば、中国から日本への船上貿易の重要拠点であったことはご理解頂けるでしょう。青島には、当時、1万5千人ほどの日本人が在留邦人として暮らしていたようです。第二次上海事変により、日本と蒋介石政府とが軍事紛争状態に至り、青島は蒋介石政府軍により占領され、日本人は引揚げ(排斥)されたようです。日本は青島へも多額の経済投資をしていました。中国の新政府にとっても重要な経済拠点でした。


昭和13年3月(1938年3月)発行 「歴史写真」 から
昭和13年1月(1938年1月) 皇軍一兵も損せず青島港を占拠す

記事:

一月十日、我軍は青島港の占據に先立ち、飛行機〇機を同市の上空に飛ばせ、市中を目がけて多數のビラを撒布し、支那民衆に對して、平和裡に青島を日本軍の手に委ねるよう勧告すると共に、第〇艦隊の朦艟〇〇隻、及び特別陸戰隊〇〇名を満載せる〇〇隻の艦船は、 舳艫相啣んで青島の東南方三里、山東頭沖に至りて投錨、續いて同沿岸一帶の敵前上陸を敢行、直ちに二路に分れて青島に向い、同日午後三時十分、何等の障碍も受くることなく、又、一兵も損せずして青島港を占據し、直ちに市內の治安維持に就くこととなった。

写真:

寫眞の右上は、山東頭の海岸に上陸、進軍か 開始したる我が特別陸戰隊。
左下は青島郊外濱口なる飛行場を占據したる我が部隊である。

 

上記の通り、青島では全く戦闘無く、上陸と同時に青島港の「占拠」が完了しました。一兵も失わずに青島を奪回しています。戦闘さえ無かったわけです。敵対していた訳では無いので、当然の流れでしょう。

 

昭和13年3月(1938年3月)発行 「歴史写真」 から
昭和13年1月(1938年1月) 青島に武威を輝かす我が陸戦隊

記事:

去る一月十日、我が海軍陸戰隊が、一兵損せずして、三十年權益の地青島を攻略したといふことは、今事變中の特筆すべき戰績と謂ばなければなるまい。

写真:

寫眞の(右上) 青島に上陸したる我が陸戰隊が 、市中を行進しつつある有樣で、バックをなせるは、獨逸人の建てたる一教會堂 である。
(左上) 一月下旬、青島公園內に於ける、往年の青島戰役我が戰歿者の忠魂碑に参拝しつつある陸戰隊。
(右下) 陸戰の將士、歩武堂々市中行進の光景
(左下) 忠魂碑前に於けるわが陸戦隊の敬禮である。

青島は大都市であるので、陥落後は、日本軍のパレードがあったようです。日本軍の圧勝、というより、初めから「お打ち合わせ」通りの展開でしょう。

 

昭和13年3月(1938年3月)発行 「歴史写真」 から
昭和13年1月(1938年1月) 我が権益の地青島港の占領

記事:

昨年の秋、一萬五千の人居留民が血涙を呑むで引揚げた山東の一角に、再び我が日章旗を仰ぐの日は来り、一月十日、帝国海軍の特別陸戦隊は、青島港の東南三里山東県の沿岸一帯に上陸を敢行、何等の障碍をも受くることなくして直ちに青島港を占據し、市内の治安羅持に就いた。

写真:

其の(右上)我が陸戦の声 進軍。
(左上)山東頭上陸の陸戦隊。
(右下)今や上しつつあ る陸戦隊。
(左下) 青島進軍の我陸戦隊を歓迎する部落民である。

青島は、済南から進軍ではなく、海軍が上陸して占領しました。ここでも、地元の中国人が日本軍を歓迎してくれていたようです。

 

昭和13年3月(1938年3月)発行 「歴史写真」 から
昭和13年1月(1938年1月) 青島の我が紡績工場破壊の跡

記事:

青島に於ける我が紡績事業は、絶て九大工場あり、その総面積百八十萬坪、總鐘數六十萬を突破するもの、而も暴虐飽くなき支那軍は、 是等の工場を全部破壊し、燒拂ひ三億圓に上る権益を一朝にして灰避に歸せしめたのである。

写真:

寫真の(右上)廃墟の工場を視察しつつ ある我が陸戦隊。
(左上)昨年の秋、涙を呑んで內地に引揚げたる邦人等も、再び陸續歸還してきた。寫真は一月十五日その第一船が 青島桟橋に到着しれる有樣。
(右下) 路傍の支那商人と我が勇士達。
(左下)支那軍に破壊されたる邦人經營(経営)紡積工場の内部である

当時の青島には、9つの紡績工場があり、日本は当時の資金で3億円もの経済投資をしていました。日本人も1億五千人が在留していました。これらは現地工場であり、中国内部へも商品流通が行われ、当然、中国人労働者も多数就業していたといえます。

 

蒋介石は、孫文の生前は、軍人学校の校長だった人物です。本当に側近だったのであれば、政府内で重要な立場にあったでしょう。この工場の安易な破壊が示す通り、残虐性や利己主義性が必要な戦争(人殺し)には長けていたものの、経済対策や治安維持など、民衆の生活については、無配慮、無頓着であったといえます。独裁者には有り勝ちな傾向でしょう。

青島の紡績工場も、日本が運営していたからといって、労働者の多くは現地の中国人であり、上記の写真のような壊滅状態になるまで破壊すれば、結果、中国人の一般市民が失業し苦しむことになります。蒋介石の統治時代が、如何に民衆を無視したものだったかが、良く解る記事だと思います。

 

昭和13年3月(1938年3月)発行 「歴史写真」 から
昭和13年1月(1938年1月) 青島に生色蘇る

記事:

過去二十五年、青島の地に植付けられた我が權益は三億圓 に達すと謂はれたが、 一朝、支那軍暴虐の魔手に逢つて、それ らの利権財寶悉く烏有に歸し、痛恨限りなきものがあつたけれども、一月十日、無敵皇軍、一兵を損せずして同港を攻略するや、續いて治安維持會設置せられ、邦人権益の地青島に生色忽ち蘇るの觀があつた。

写真:

寫眞の (右上) 青島治安維持會長に就任の趙琪氏。
(左上) 青島市政府に於て、在留外人代 表と我が代表との會見。
(右下) 英國軍艦『サ フオーク號』フィリップ艦長の我が〇〇提督 訪問
(左下)四ヶ月振りにその主を迎へた帝國總領事館と、感慨無量の大鷹總領事である。

 

写真拡大 ー 青島治安維持会長の趙琪氏

上記は、青島の占領後、早速、青島治安維持会として、地方自治政府が成立したことを伝える記事です。

 

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日中戦争での日本軍の行軍と本当の歴史については、必ず、訂正されるべきと思います。このサイトでは、特に日本軍の行軍に関して、出来る限り多くの写真を紹介したいと思います。

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