1931年9月の満州事変の成功、半年後の満州国の独立建国、これらが達成出来た最大の理由は、張学良の巧妙な戦略にあったといえます。一般的認識では、張学良には、張作霖のお陰で中国北部東北部の大総統の地位に就いた「無能なお坊ち…
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1925年の孫文の死後、孫文の意志を継いで「北伐完了」を果たし、一旦は中国に南北統一政府が実現したものの、蒋介石は、独裁断行に加え、反日排日政策を強行し中国北部は不況に陥り、更には、ロシア(旧ソビエト)との対立構造から共…
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1928年6月の張作霖列車爆殺事件、直後の北京無血開城、1929年1月の易幟(政府旗の変更)、その後の蒋介石の独裁化を受け、1930年には遂に、中国は再び南北に分かれて軍事対立する事態に陥ります。1930年9月に、北部側…
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昭和5年7月(1930年7月)発行「歴史写真」から 昭和5年5月(1930年5月)四面楚歌の声の蒋介石 記事: 中華民國々民軍代表蒋介石氏の主義施政に反對する同國一方の重鎮 馮玉祥閣 錫山の兩氏は四方に同志の諸將 を糾合…
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1929年(昭和4年)は、1月の易幟、3月の蒋桂戦争、6月の馮玉祥の政権離脱(排斥)と蒋介石による政敵排除が進みました。しかし、9月下旬には、今度は、蒋介石を政権から排斥する動きが出て来ます。この反蒋介石派を主導していた…
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1928年6月の張作霖列車爆殺事件、直後の北京無血開城、その後、1929年1月の易幟(政府旗の変更)を経て、中国は南部の蒋介石政府が主導する形で、一旦は南北政府統一を果たします。しかしながら、「易幟の真相」で述べた通り、…
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露支の戦争危機と世界恐慌 昭和4年(1929年)は10月頃から「世界恐慌」が始まった年です。中国の北部の北京政府が消滅し、南部の政府旗に置き換わる=易幟は、昭和4年(1929年)1月1日からです。その後、蒋介石は、日本排…
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蒋介石の支援国はイギリスやフランスといったヨーロッパ諸国でした。一方、イギリスとロシアは、東南ヨーロッパ地域=バルカン地域で領土利権を争い、長期に敵対的関係が継続していました。 バルカン地域は、ロシア(ソビエト)からすれ…
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蒋介石の北伐完成後、北部の北京政府は解体消滅し、12月の年末には「易幟」が決まり、翌年1929年1月1日から、中国北部(北支=北支那)、特に、東北部(満州地域)での政府旗(=国旗)が、「青天白日満地紅旗」に変更されること…
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蒋介石からすれば、張学良は、満州系北方政府を支配下に置くための「手駒」であり、そのため表向きは非常に高い地位を与え、それにより、統治下にあった北方地域の不満を抑える役割に使っていたといえます。張学良を配下におけば、間接的…
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