易幟の真相4-ロシア(共産主義)への影響

易幟の真相4-ロシア(共産主義)への影響

蒋介石の支援国はイギリスやフランスといったヨーロッパ諸国でした。一方、イギリスとロシアは、東南ヨーロッパ地域=バルカン地域で領土利権を争い、長期に敵対的関係が継続していました。

バルカン地域は、ロシア(ソビエト)からすれば、国の西南に接する地域です。イギリスとフランスは、当時、オスマントルコ帝国の植民地化も画策していました。これを脅威としたロシアは自国の西南部と接するバルカン地域の民族運動を支援し、その結果、オスマントルコからの民族独立分離が相次ぐ事態となりました。

その動きを受け、オーストリア・ハンガリー帝国が、オスマントルコから独立した国家に領土拡大を目論み、結果、第1次世界大戦が勃発しています。ヨーロッパでは、非常に不安定な情勢が続いていました。イギリスとフランスはオスマントルコを支援し、ロシア(ソビエト)とは真っ向から対立しており、当然、その影響が極東アジアへも波及していました。ロシア(ソビエト)は東西に長い国家ですが、南西部では常にイギリスと対立が生じ、また東南部の中国でもイギリスと対立が進んでいました。

蒋介石はイギリスが支援していた人物ですので、当然、共産主義のロシア(ソビエト)とも「敵対関係」にありました。極東アジアの「中華民国(蒋介石政府下)」で、蒋介石が共産党員の弾圧、ロシア人居留民への残虐な襲撃や領事館への攻撃を激化させれば、ロシア(ソビエト)と中国(蒋介石政府)と戦争が勃発し兼ねません。そうなれば、ロシアは戦力を極東へ分散しなくてはなりません。

「軍事支援」という名目で関与しているイギリスと異なり、ロシア(ソビエト)は自から戦争に対応しなくてはなりません。中国の極東アジアで戦争状態になることは、イギリスとフランスにとっては、バルカンやペルシャの戦争で優位に立つ有効な戦略だったといえます。

中国人とロシア人との間で戦争を起こさせる目的であれば、「共産思想」は「絶好の口実」となります。だからこそ、「国内の共産党勢力を撲滅する」という名目で、蒋介石軍は、共産党員の大量逮捕や処刑を行い、ロシア居留民や領事館などへも残忍な襲撃を行っていたようです。

一般的な歴史では、日本が共産党と戦っていた話になっていますが、実際には、蒋介石政府が共産党の迫害を断行していました。

バルカン地域(半島):
イタリアと海を挟んだ東側に位置する大きな半島。ギリシャ、ブルガリア、セルビア、クロアチアなど複数の国家がある地域。かつてはオスマントルコ帝国の統治下にあった地域。

昭和4年8月(1929年8月)発行「歴史写真」から
昭和4年5月(1929年5月)ハルビン共産党員39名の逮捕

記事:

一時再び大亂た見るかと 思ばれた將介石氏に對す る馮玉祥氏の對立も馮氏 の下野に依て禍乱を未然に防ぐを得、此ところ隣邦支那は小康を得たる形である。

写真:

寫眞の右上は 最近南京より久方ぶりに北平を訪れた蒋介石氏が北京ホテルに納っているところ。
同下は過般孫文慰霊祭に參加した犬養毅氏が七十七代の孫礼徳氏と曲阜孔子廟に於て會 見したる有樣。

左上は去る五月二十七日ハルピン なる露國領事館地下室に 會合北滿赤化を策謀していた共産黨員三十九名が 一網打盡支那官憲に逮捕される有樣。

左下蒋介 石氏の北平入を先導警備 した裝甲車北中號である。

 

ハルビン共産党員39名の逮捕

上記の39名は、ロシア人であり、ロシア国の領事館にいた人々です。当時東北部満州地域は共産党の勢力が拡大していたことは事実です。しかし、本来であれば中国政府が他国の領事館に押し掛け、地下で集会をしていたという理由で「逮捕」するというのは過剰反応といえるでしょう。強引な逮捕であれば、逮捕理由を捏造する場合もあります。当時、蒋介石政府が、ロシアに対して非常に攻撃的な態度であったことが伺えます。

昭和4年9月(1929年9月)発行「歴史写真」から
昭和4年7月(1929年7月)露支の關係危殆に瀕す

右ページ

左ページ

記事:
露西亜の共産党がパルピン領事館内に事務所を設けて北満蒙古の赤化を図っている事を探知した支那官憲は六月下旬その党員三十余名を一網打尽に検挙したが、七月十日に至り支那側は更に一歩を進めて強制的に東支鉄道を奪回し且つ露西亜側の主たる役員全部を監禁するに至った爲め露西亜政府派大いに憤慨し、強硬なる抗議を申込み、支那政府の反省を促したるも、支那もさるもの露西亜の手強き談判に対して一歩も退かず、却て挑戦的の態度さえ示したので露西亜側は遂に七月十三日付を以て三日間の猶予を附し最後の調達を発するに至ったが、支那側はそれにさえ尚且つ斷然たる態度を持し寸毫譲歩するところなかつたので結局兩國間の國交は斷絶 するに至り、兩國軍隊は双方より國境方面に向って續々輸送せられ、事態は刻々險惡の度を増し來り同月十九日、廿日頃は満州里、ボクラニチャ方面に於て露軍は頻りに威嚇砲を放ち人心胸々たるも のあり、在留邦人の多くも領事館等へ引揚げ、 戰端將に開かれんとするの勢いを示したが、同月下旬に至り、兩國共鼻息のみは徒らに猛烈にして而もお互いに戰爭を回避するの底意あり、他國の干渉調停等開始せられざるに先立ち和平解決に闞し兩國代表の會見となり、本メ切の頃に於てば戰爭の危険は全く一掃せられたるものの如くであった。

写真:

寫眞前頁右上は最新式の支那軍隊。同下ば露支國境ボクラニチャの全景。 左ば滿洲里日本領事館に引揚ぐる在留邦人。

後の頁右上は滿洲里街頭の駱駝。同下は露支國交斷絕の爲め本國へ引揚ぐる奉天露國領事館員。 左はハルビンに避難しつある支那人である。

前月6月下旬に、蒋介石政府(支那)の官憲(警察)が、北満州と蒙古地域の共産主義化の計画を協議しているという理由で、ロシア領事館に押し入り39名ものロシア人を強制逮捕したことが切っ掛けで、翌月には、更に、東支鉄道を「奪回」とありますが、限りなく、強制占拠し、ロシア人役員を監禁するなど、ロシアに対して非常に挑発的な行動に出ました。

結果、ロシア(ソビエト)と蒋介石政府(支那)との間で、軍事衝突の危機が高まりました。

東支鉄道(旧東清鉄道): ロシア帝国が満洲に建設した鉄道路線。満洲里からハルビンを経て綏芬河へと続く本線と、ハルビンから南下して大連、旅順へと続く支線からなる。日本は日露戦争の勝利により、現在の長春(満州時代の新京=満州国の首都)から南の鉄道権益を、ロシアから譲渡されている。