満州事変の真相2ー張学良の策略

満州事変の真相2ー張学良の策略

1931年9月の満州事変の成功、半年後の満州国の独立建国、これらが達成出来た最大の理由は、張学良の巧妙な戦略にあったといえます。一般的認識では、張学良には、張作霖のお陰で中国北部東北部の大総統の地位に就いた「無能なお坊ちゃま」の印象がありますが、実際は、父親以上に相当な策士であり、易幟の頃には、将来的な満州国の独立建国に向けて、準備を進めていたと言えます。更に言えば、「易幟」という非常に屈辱的な仕打ちを敢て黙認し、その後は、蒋介石政府側の内部対立の状況を見ながら、一旦は北部を裏切って蒋介石側に付いた馮玉祥と閻錫山を味方に付けて行きます。

中原大戦=第二次支那動乱では、張学良の奉天軍は基本的に静観の立場を取り、馮玉祥と閻錫山に蒋介石と先に戦わせ南部の蒋介石軍の主な部隊を、戦争を理由にして中国中央部や南部へ追い返したといえます。北京周辺から蒋介石軍が大量に撤退したからこそ、閻錫山が北京(北平)に北方国民政府を樹立出来る状況が生まれたといえます。張学良は、この軍事撤退のタイミングを見計らって、南北の政府対立を停戦させました。

中原大戦と呼ばれるほどの動乱を「停戦」させたのですから、不況のイギリスから十分な軍事支援が期待出来ない蒋介石にとっても、「有難い」状況ではありました。その後、張学良は、閻錫山の率いていた山西軍を北京から退出させ、その代わりに自分の率いていた奉天軍を北京に配置します。これは、満州東北部の奉天派の勢力が、北部の北京(華北)地域まで南下進出したことを意味します。張学良が、南北軍事対立を治めたのですから、南部の蒋介石政府に対しても、北部東北部は自分が蒋介石の代わりに治安維持など政府機能を行うという「大義名分」も立ちます。

張学良は、正に、上記の様な経緯で、南部の蒋介石政府に入り込み、結果、北部東北部を統括する「副総裁」の地位に就く事になりました。これにより、北部や東北部、要は、旧北京政府の勢力圏については、蒋介石が直接ではなく、張学良が「配下」として、軍事面、経済面を含め、全てを統治することが可能になります。この時点までに、張学良は、表向きは蒋介石政府軍であっても、実質的には、蒋介石政府軍の主力軍閥を、奉天軍(満州軍)の傘下に入れることに成功したといえます。

昭和6年2月(1931年2月)発行「歴史写真」から
昭和5年12月(1930年12月)小康の支那

記事:

支那南北の戦ひに蒋介石氏は大勝を博し、さしもに戦乱相次いだ支那も一時小康を得るの形勢となつた。

写真:

寫真の右上は一敗地にまみれたる閻錫山氏が十二月上旬外遊すべく大原を發して天津の日本租界に入ったるところ。左上は蒋氏と会見すべく南京に赴ける張学良氏が、同地郊外孫文陵に參拜したる日の記念撮影で、前列右は蒋氏、左は張氏。下段 は張氏の後を追ひて南京に来れる張夫人于鳳至歓迎の写真で、左は蒋氏夫人宋美齢、 中央張夫人、右は孔祥煕夫人 宋露齢で蒋夫人の実姉である。

 

張学良は、1930年9月下旬頃に、中原大戦=第二次支那動乱を停戦させています。その後、北京(北平)へ奉天軍を入城させ、治安など都市の正常化を図り、12月に、蒋介石と会見するため、北京を離れ、南京に赴いたようです。中原大戦=第二次支那動乱の終結とは、再び、中国で南北の統一政府が再興したことを意味しますので、南京にある孫文稜へ、蒋介石と張学良と二人そろって参拝することになったようです。

張学良は、蒋介石とも、馮玉祥とも閻錫山とも、一切戦火を交えず、こうして蒋介石と肩を並べて写真を撮る「地位」に一気に伸し上ったといえます。この時、閻錫山は「外遊」目的で日本租界へ入っています。閻錫山は「暗殺を恐れて亡命」というところでしょうか。日本政府へ保護を求めたようです。

 

張学良と、馮玉祥、閻錫山の両氏との間に、どの様な「密約」があったかは不明ですが、張学良が「中原大戦=第二次支那動乱」を停戦させたことで、張学良は、奉天軍だけでなく、直隷軍(馮玉祥)、山西軍(閻錫山)を配下に置き、更には安徽派(段祺瑞)を吸収し、結果、父親と同じ立場=元北京政府の大総統の地位に、一戦も交えず、返り咲いたといえます。その上で、自らが蒋介石側に付けば、蒋介石としては、北部東北部の地域=旧北京政府の直属統括地域については、政治面、経済面、軍事面の全てにおいて、張学良に一任せざるを得ない状況になります。

上述の様に、当時の張学良の行動を分析すると、張学良が実は「非常な策士」であったことが伺えます。また、当初から、張学良を蒋介石側へ送り出す「戦略」だったとすれば、馮玉祥と閻錫山も、非常な「食わせ者」だったかも知れません。単に、政治的な内部対立に留まらず、「満州国分離独立」という目的の下、蒋介石を陥れる意図をもって動いていたとも考えられます。

食わせ者:見掛けは良いが実際には良くない者。偽者。

どこまでの意図があって「中原大戦」を起こしたかは不明ですが、事実として言えることは、張学良が、馮玉祥と閻錫山が起こした「中原大戦=第二次支那動乱」を収束させたことで、父親の張作霖と同様に北部側の大総統に等しい立場となり、更には、蒋介石と「肩を並べる立場」になったということです。将来的に、満州地域=中国東北部の分離独立を目指し準備していたとすれば、北部の満州民族がまず遣るべきことは、「北伐」以降に配置された南部の蒋介石軍を、満州地域全土から完全に排斥することでしょう。張学良が、「戦争停止」する形、要は、「蒋介石に恩を売る」形で停戦に持ち込み、張学良が蒋介石と「同盟関係」になれば、北部東北部は全て張学良に全権を委ねるよう交渉する「大義名分」が生まれます。そうなれば、当然、軍事的な采配も全て張学良の決断で行えます。

昭和5年12月(1930年12月)張学良と蒋介石ー拡大

上記の写真は、「歴史写真」という雑誌の片隅の単なる一枚ですが、当時の情勢を考えれば、非常に意味の大きい一枚です。張学良が、北部東北部での軍事統括権を持つことが、「満州国の分離独立」を成功させる最も大きな要因となるからです。この時点で、蒋介石政府軍は、同盟した軍閥が排斥や分離に至ったため、「北伐」の頃の実質4分の一にまで縮小していたはずです。しかし、イギリス、フランス、アメリカなど列強国家の軍事支援を受けていましたので、「満州国の分離独立」の際に、張学良と蒋介石が直接軍事対決になれば、中国で再び更に大規模な南北戦争が勃発してしまいます。それを避けるためには、まず、北部東北部から、蒋介石の直属軍を全て排斥した上で、満州国の分離独立の際には、蒋介石が「独立」阻止に、北方へ軍隊を動かせない状況を作っておかなくてはなりません。

日本は、自ら協力したか、巻き込まれたか、どちらが真実かは不明ですが、日本軍が満州地域から支那軍=蒋介石直属軍の排斥には、非常に大きく貢献したのは事実でしょう。

ちなみに、当時、張学良は、「中原大戦=第二次支那動乱」を収束させた「功績」により、日本からも「感謝」の記として、勲章を送られています。日本にとってすれば、兎に角、中国が戦乱状態を脱してくれないと、経済活動が正常に展開出来ません。張学良の停戦は非常に大きな意味を持つものでした。また、張学良に「勲章」を送ることには、今後は「邦人の安全確保に努めて欲しい」という意味があったといえます。

昭和6年3月(1931年3月)発行「歴史写真」から
昭和6年1月(1931年1月)最近時事小景

左上の写真の拡大

記事:

(右上)畏き邊りより奉天の張学良氏に御下賜あらせられた勲一等旭日大綬賞伝達式は一月二十一日午後四時より同地長官公署に於て挙行せられ、張学良氏は我が林総領事より恭々しく該勲章を拝受した。写真は中央張学良氏、その左秘書陶向銘氏、右關島書記生 林総領事である。

私は、本サイトで、張学良の父親の張作霖列車爆殺は、蒋介石によるものであると主張、説明をしておりますが、上記の記事の様に、張学良は「北伐完了」の後も、日本から勲章を授与されるほど、「密接な関係」を保持していたことが伺えます。この記事は、張学良が「日本を父親のかたき」などとは考えていなかったことの証明といえるでしょう。張学良の左に立つ陶向銘は、張作霖爆殺事件後、1928年7月、奉天張学良氏の特使として我が政府に対し東三省の苦衷を訴え、支援を求めるために、来日した人物です。

張学良は、奉天の出身ですが、奉天とは、かつての清国(満州民族の征服王朝国家)の首都であった場所です。1644年に北京に遷都した以降も、初代皇帝などの墓陵が置かれた場所です。そうした場所に生まれ育った人物であれば、本来であれば、清国=満州国の再興を最も望んだ一人であるといえるでしょう。更には、父親の張作霖は、「北伐」を有利に終焉させようと目論んだ蒋介石に暗殺されたのです。蒋介石を最も憎んだ人物とも言えるでしょう。自分が犠牲になったとしても、満州国の分離独立を成功させたかったのでは無いでしょうか。そのような観点で、張学良の行動を見直せば、満州国の分離独立、その後は、蒋介石の中国からの排斥に、最も大きく貢献していた人物としての側面が見えてくるといえるでしょう。

 

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