易幟の真相2-張学良と満州国樹立
蒋介石からすれば、張学良は、満州系北方政府を支配下に置くための「手駒」であり、そのため表向きは非常に高い地位を与え、それにより、統治下にあった北方地域の不満を抑える役割に使っていたといえます。張学良を配下におけば、間接的な北部東北部の統治が行えると見込んだと考えます。
一方、張学良は、蒋介石に下った後は、密かに日本の支援の下、満州民族の独立と建国に向けて準備を進めるため、自分の存在を「満州国独立」のカモフラージュに使ったのではないでしょうか。日本へは、北京無血開城後、直ぐに特使を派遣しています。
蒋介石の抗日反日姿勢により、中国内の日本人居留民に度々残虐行為を繰り返す事態も続いていたとすれば、それを脅威に感じていただろう日本政府とは、十分な利害の一致も見られます。「北伐」で敗戦した理由は、北部が軍事面でも経済面でも近代化が遅れた事が一つの要因とも言えますので、満州国の分離独立に際しては、まず、日本の軍事支援を取り付け、独立出来る体制を生み出すのが先決です。「北伐完成」の報告祭の直後から、満州地域の独立に向けて動いていたといえるでしょう。
父親を暗殺した相手に服従したかの様な張学良の姿勢は、「敵国に人質となった皇太子」の様であり、地位も生活も優遇されてはいるものの、「支配国を牛耳る為の材料」に使われていた感を受けます。その後、1931年9月の満州事変を経て、満州国の樹立、1934年3月には満州帝政開始により、かつての清帝国が実質的な復活を遂げます。
張学良は、「北伐」、「易幟(えきし)」を経て、その後は蒋介石の政府で、まるで側近の如く動いていたかの様な印象がありますが、実際のところは、満州地区の分離独立に向けて密かに動いていたと考えます。1931年9月の満州事変の前には、イタリアに接触を図っています。これは、満州国の独立後、ヨーロッパ諸国が国際承認を拒否することを想定し、密かに承認国の確保の意味があったといえます。
Wikipediaの記事に、1931年2月にイタリアのムッソリーニの娘であるエッダ・ムッソリーニと、北京で、一緒に撮影した写真があります。「不倫」を装っていたようです。また、名目は「アヘンの治療」とも言われていますが、1932年8月頃に、ヨーロッパ外遊の準備中との記事が「歴史写真」にあります。当時は、満州国事変の責任を問われ、下野(辞職)していたようです。Wikipediaの記事には、イタリアとドイツを訪問していたことが掲載されています。
イタリアはドイツとは隣同士であり、宗教的にもカソリックが基盤です。イタリアとドイツは日本がその後「三国軍事同盟」を結んだ国々であり、1936年11月には、日本、イタリア、ドイツ間で防共協定が結ばれています。これと同時期に、イタリアが満州帝国を承認しており、「歴史写真」には、イタリア在日大使と満州国大使とが笑顔で写る写真が掲載されています。これらの事実から、張学良が、満州帝国の国際承認を得る為にムッソリーニの娘と個人的な親交を深め、欧州への渡航も真の目的を蒋介石に疑われず水面下で動く意図からであったと言えます。
蒋介石は、満州帝国の樹立には完全に反対する立場です。そのため、現在の歴史認識の様に、蒋介石と張学良が常に協調関係だったかは一概には言えないでしょう。張学良は、1934年帰国以降は、実弟を通じて、毛沢東率いる共産党勢力に接近しています。蒋介石と毛沢東は、かつては孫文の側近又は側近的存在であったと考えています。しかし、蒋介石は、共産党弾圧を強行し、毛沢東の2人目の妻を処刑したことから、「対立構造」が生まれていました。張学良は、蒋介石と敵対する相手とも接触を図っていたともいえます。
こうした事実を考察すれば、「易幟(えきし)」の歴史的な意味合いは、現在の認識とはかなり異なって来るのではないでしょうか。