中原大戦の真相1ー第2次支那動乱
1928年6月の張作霖列車爆殺事件、直後の北京無血開城、その後、1929年1月の易幟(政府旗の変更)を経て、中国は南部の蒋介石政府が主導する形で、一旦は南北政府統一を果たします。しかしながら、「易幟の真相」で述べた通り、蒋介石は北部の北京政府の機能を完全に消滅させた上、北部とは経済協力関係にあった日本とロシアを中国から排斥する方針に動き出しました。これは、蒋介石の支援国であったイギリスの意向を強く反映した結果といえます。イギリスやフランスによる中国の植民地化政策はインドやビルマを経て中国の南部から始まっています。しかし、中国の植民地化を目論むのであれば、北部や東北部を手中に収めなければ、中国を植民地化する意味がありません。その位、ロシア(ソビエト)東南部、内外蒙古、満州地域は、石油や石炭や鉄鉱石などの天然資源に恵まれた土地だからです。この領域を、当時は、日本とロシア(ソビエト)が鉄道権益を掌握することで管理していました。
1929年は形式的には中国の南北政府統一が達成されましたし、上半期は蒋介石も相当強気な政策に出ていたようです。蒋介石が「北伐」で勝利出来た北部の北京政府を構成していた2つの大軍閥が、南部の蒋介石側に寝返ったことが最大の要因でした。しかしながら、張作霖の列車爆破による暗殺、その後の易幟での北部を徹底的に軽んじる遣り方、北部の経済発展を支えていた日本とロシアの強硬排斥など、蒋介石政権の横暴な執政に対し、北部を裏切った軍閥の将軍達が、今度は、蒋介石に対して反旗を翻すようになって行きました。
この動きは1929年頃から本格化して行き、1930年には再び中国国内で大きな内乱が繰り広げられる事態に発展しました。第二次中国南北戦争の勃発だったといえるでしょう。この時は、中国の中原地帯(中支那)が衝突地域となったため、「中原大戦」という名称となっているようです。
蒋介石政府の内部分裂
離反した北京政府の要人
以下は、当時の北部の北京政府の4大派閥とその代表者です。「北伐」で、蒋介石政府側に付いたのは、直隷派の馮玉祥(ふう ぎょくしょう)と、山西派の閻錫山(えん しゃくざん)でした。
派閥名 | 代表人物 | 出身地 |
直隷派 | 馮玉祥(ふう ぎょくしょう) | 直隷省(黄河下流の北部地域) |
奉天派 | 張作霖(ちょうさくりん) 張学良(ちょうがくりょう) |
奉天省(中国東北部ー満州地域) |
安徽派 | 段 祺瑞(だん きずい) | 安徽省(中国中部の東北地域) |
山西派 | 閻錫山(えん しゃくざん) 傅作義(ふ さくぎ) |
山西省(中国北部の平野地域) |
1929年1月の「易幟」以降は、今度は、一度は蒋介石側に付いた馮玉祥と閻錫山が、蒋介石に反発し、反蒋介石運動や反蒋介石戦争を繰り広げて行きます。同時に、張作霖の率いていた奉天派からも、蒋介石政府に対して旗揚げ(反撃)を試みようとする人物(張宋昌)も現れていました。1929年3月には、南部政府側の人物であり、「北伐」では蒋介石側で参戦していた李宗仁が、蔣介石に反旗を翻して挙兵しました。「歴史写真」の世界日誌(その月の出来事)には、以下のような記事があります。
1929年3月11日:支那国民政府の主班蒋介石氏は武漢討伐令を発し、同時に、李宗仁(り そうじん)、白 崇禧(はく すうき)両氏の逮捕命令を発し、多数の軍隊を九江に向て集中せしめつつあり。
1929年4月5日:国民政府に対し反旗を翻したる武漢軍敗走して漢口陥落し本日蒋介石氏同地に入城す。
上記の武漢での軍事衝突は、「蔣桂戦争」と呼ばれているようです。李宗仁(り そうじん)という人物は、中国南部の広西省の桂林出身だったことから「蔣桂戦争」となったようです。孫文の時代から中国南部で大きな軍閥を率いていました。
Wikipedia 馮玉祥のページより 左より、馮玉祥、蒋介石、閻錫山
蒋介石は当初より「独裁」を目論んでいたとすれば、「北伐」が終わった後は、排斥した勢力だったことは明白です。馮玉祥と閻錫山についても同様でした。本来は、「北伐」に貢献した人物が、政府内でも重用されるべきところ、蒋介石は排除する動きをみせたため、内部対立が生じる結果となったといえます。
しかし、この当時は、まだ、蒋介石も勢力を保っていたため、李宗仁との戦争では蒋介石が勝利し、馮玉祥との対立では馮玉祥が辞任(下野)する形となりました。
1929年6月16日:支那の馮玉祥氏は其の信頼する部下の多くが相次いで寝返りの態度を示すに至りたる爲め形勢の非なるを自覚して断然外遊を決心し露西亜を経てドイツに赴くべき旨を発表す。
歴史の一般的な理解では、馮玉祥という人物はその後も蒋介石府側の人間の様に理解されていますが、この時、蒋介石と敵対するロシアを経由して、日本と親交の深いドイツに赴くと発表しています。この馮玉祥は、この時点で、北部の満州民族側(元北京政府)に出戻ったと考えて良いでしょう。
その後の中国北部や東北部での蒋介石政府の統治による「大混乱」、日本やロシアとの対立、それによる不況到来、対立する軍閥の粛清、共産党の弾圧、こうした蒋介石の統治や人事に対して、当初は、「中国南北統一政府」への期待や蒋介石への信用信頼は、日に日に薄れて行ったといえます。
1929年10月、アメリカの株式市場の大暴落から世界恐慌が生じると、蒋介石はイギリスやアメリカからの軍事資金援助を十分に得られない状況に陥ります。アメリカ政府は、急激な財政難から、イギリス、フランス、日本、イタリアの5か国と「軍縮会議」を呼びかけるに至っています。この頃から、蒋介石の形勢にも陰りが生じて行くようになり、反発する勢力を抑えきれない状況が生まれたといえます。
「歴史写真」の世界日誌(その月の出来事)には、以下のような記事があります。
1929年9月20日:蒋介石氏を排撃せんとする運動今や支那全土に波及拡大せんとする兆あり、蒋氏は軍隊の力を以てこれを鎮圧せんとし、南京市中物情騒然たるものあり。
これが、その後、「中原大戦」を呼ばれる二度目の南北戦争、即ち、第二次支那動乱が勃発した理由です。