易幟の真相5-易幟と世界恐慌

易幟の真相5-易幟と世界恐慌

露支の戦争危機と世界恐慌

昭和4年(1929年)は10月頃から「世界恐慌」が始まった年です。中国の北部の北京政府が消滅し、南部の政府旗に置き換わる=易幟は、昭和4年(1929年)1月1日からです。その後、蒋介石は、日本排斥、ロシア排斥を中国全土に展開して行きます。

「易幟の真相3-ロシア(共産主義)への影響」で述べた通り、6月下旬からは、ロシアと蒋介石政府下の中国との間で「軍事衝突」の危機が非常に高まりました。この直後の1929年7月30日、ニューヨークでは、ロシア(ソビエト)は旧帝国時代の皇帝及び貴族がアメリカに株式投資していた約1億ドルについて、返還を求める(売却する)と報道があったようです。正式な報道だったようですので、この時、具体的には、ロシア(ソビエト)よりアメリカ政府に対し返還に関して協議を求めたかも知れません。

これを受け、8月上旬、アメリカ政府は公定歩合(銀行融資金利)を6%に一気に引き上げています。銀行融資金利が急激に上がったのですから、一般企業は銀行融資を取りやめ、調達先として株式投資へに転向しますので、株式市場へ資金が流れることになりました。銀行側にも、貸付で市場に流出していた資金が手元に戻ることになり、戻った資金は、やはり株式投資に回ることになります。

アメリカ政府としては、株式市場でのロシア(ソビエト)の多額の返還(引揚げ)分を、一般企業からの株式投資で補おうとしたのでは無いでしょうか。結果、株式投資(売買)が過熱します。大量の社債発行、株券発行が起き、これを資金の余った金融機関などが買い漁り、9月初旬には、アメリカのダウ(米国の平均株価)は異常な高値を更新しました。

ロシアの売却後から資金調達を始めたのでは、企業の資金繰りが滞る可能性から、売却に先立って資金調達に動く必要があったといえます。そのため、新規株式社債の発行が相次いだのではないでしょうか。

しかし、ロシア(ソビエト)の資金引揚げは無かったようです。ロシアが保有していた株が市場に売却(放出)されなければ、企業が資金を必要としなくなるため、追加の余剰株式や社債の発行と同じ状況になります。公定歩合が高騰していますので、株式や社債の金利も高くなり、企業側の資金調達コストが高くなります。一方、ロシアの投資分で資金は足りているため、企業の方では「金余り」状態に陥ります。また、企業規模以上に株式社債数が発行されることにより、一株当たりの株価を下げなければ、株式分配が追いつきません

ロシアが株式を大量売却し市場に出回ったら、企業で購入して、株価の低下を押さえつつ、その購入資金を、新規発行株数で賄い相殺出来ますが、ロシアが売却しなければ、発行した新規の株数が市場に過剰供給されることになります。企業が追加資金を必要としないのであれば、新規株数を上乗せした株数で、必要投資金額を割ることになりますので、必然的に、1株の単価はその分下がります。同じ資金調達でも、株数を減らして高額にするか、株数を大量にして低額にするかは各企業の方針によります。追加投資が不要なのに、株数だけを増やせば、株価は下がって当然です。

その状態で、ロシアが株式の売却によりアメリカへの投資を引き揚げ無かったために、株式市場に株の大量供給が起きてしまったといえます。当初は、売却を見越して「新規株の発行」が続き、一時期は売買高が異常に高騰しましたが、程なくして、供給過剰の状態に陥り、その後は株価の大暴落が起きました。大暴落して安くなれば、買い手が殺到し、価格が反発します。それで、また売却が起き、その後は、持ち直しては大暴落を繰返していきます。株式の需要と供給のバランスから、株価が元へ戻ろうと動いただけですが、上り幅が急激だったため、一気に下がり、一気に下がるので、また一気に反発上昇し、非常に不安定な状況に陥ったといえます。株に投資している企業や個人投資家は、下がれば、売却に動きます。株価の超高騰の後であれば、売却の動きも激しくなったでしょう。

ロシアにすれば、ソビエト時代ですので、帝政時代の遺産のようなものであり、半世紀以上前の購入であれば、株価は非常に安価であったでしょう。どのタイミングで売却しても国家経済的には影響は無かったかと思います。アメリカの株式市場で大暴落が起きても、株価が反発したタイミングで売却すれば、今度はそれで株価の下落を誘発出来ます。

世界恐慌と蒋介石

当時のアメリカは、まだ、蒋介石には直接的に多額の軍事借款は行っていなかったと思います。しかし、蒋介石の資金源は、アメリカ系中国人による金融系財閥であった「浙江財閥」でした。この財閥を通じての株式投資により、アメリカという「国家」より資金調達をしていたことは確かです。また、蒋介石は、自分の政府(中華民国)としても、多額の株式投資をしていた可能性もあります。そのため、アメリカの株式市場で株の大暴落が起きるような事態は、相当な痛手にはなったと言えます。

こうした経緯や理由から、当時、ロシア(ソビエト)がアメリカから投資資金を撤退するとの意向を示したのは、極東アジアの中国での蒋介石との戦争を回避する目的だった可能性が非常に高いといえます。戦争を避けるために、相手の戦争資金を潰すという戦略でしょうか。

一方、イギリスはアメリカの投資市場の急激な不安定化に加え、中国での戦闘資金の確保の目的から、同年9月末、公定歩合の引き上げを行いました

これにより、既に株価が上下に大きく昇降し不安定状態になっていたアメリカ株式から、イギリスの投資分を引き揚げ、それをイギリス国内の株式投資に転じる動きが出ました。アメリカへの投資によるイギリスの金融損失を、イギリスの株式市場から補填しようとしたようです。ところが、これはアメリカの株式市場からの多額資金の引揚げに繋がります。資金引揚げ=株式の売却ですので、必然的に、株価の大暴落に拍車を掛けたといえます。これが1929年10月のアメリカの株価大暴落を引き起こす「大きな要因」となったと言えるでしょう。

この時、もし北京政府が健在で、中国経済が安定していたとすれば、余剰資金を中国株式へ投資し、安定化を図る方法も取れたかも知れません。

しかし、ロシア、日本、満州及び北部支那(北京政府)とが数十年掛けて築いて来た経済市場は、蒋介石の「北伐」で崩壊状態に陥っていました。余剰資金を投資する先が無いまま、アメリカとイギリスが連動し、世界的な株式の大暴落に繋がったともいえます。日本も、同時期に、大きな不景気に見舞われています。しかし、これはアメリカを発端とする世界恐慌の影響ではなく、蒋介石の「北伐」により中国経済が崩壊状態に陥り、中国での企業活動が非常に滞った事が原因といえます。

同時期であったため、日本の不景気の理由が世界恐慌にあるように見えてしまっているようですが、当時の日本はアメリカ株式にそこまで影響する程投資はしていなかったといえます。日本が投資していたのは、「中国(満州地域)」ですから。

当時のロシア(ソビエト)が、「世界恐慌」までを想定して、アメリカからの株式投資の引揚げを発表したかは不明です。しかしながら、結果的に、アメリカを通じ、イギリスが中国で展開するつもりでいた戦争の軍事資金が捻出出来ない状況は生じました。蒋介石としては、中国での戦争では、毎回イギリスから多額の軍事借款を得ていました。南北政府の統一は達成しましたし、ここから一気に、満州地域を完全占領し、日本だけでなく、ロシア(ソビエト)を排除しようと目論んだと言えます。これも当然、蒋介石とイギリスとの関係性の結果として起きたことです。蒋介石は、中国本土で、ロシアと戦争を起こす為に、ロシア事館での大量逮捕や共産党の大迫害を行い両国の関係悪化を狙いました。しかし、ロシア(ソビエト)の方での、ある意味、水面下での画策により、蒋介石は戦争資金を十分に確保出来なくなったといえます。

「歴史写真」の巻末の「世界日誌」の記事

記事によると、

「7月31日 東支鉄道問題に臨する露支両国の第一次折衝は両国境の列車内にて開会せられ激論11時間にして何等も具体的に纏まるところなし。」

とあります。

7月30日は、ロシア(ソビエト)のアメリカ株式市場からの資金引揚げの発表があった日ですので、翌日7月31日の時点では、蒋介石政府はかなり強気だったといえます。蒋介石が、如何に、満州の天然資源を狙っていたかが解ります。

一方、会議決裂の時代を受け、翌月、8月は、ロシア(ソビエト)軍からの威嚇砲撃や、9月は国境付近でロシア(ソビエト)空軍による爆撃があり、蒋介石政府とロシアとの間は、一触即発の危機に瀕しました。

 

昭和4年10月(1929年10月)発行「歴史写真」から
昭和4年8月(1929年8月)露支紛争の其後

去る七月十日支那政府が露西亜に對する強壓手段として武力を用ひ東支鐵道(東支鉄道)を奪取したるに因を發し、兩國(両国)間の國交途に断絶するに至ったが續いて同月二十日前後に於ては兩國國境附近なるボグラニチナヤ及び満州理方面に於て兩國軍隊の間に小衝突あり、開戦は到底避け能はざるの形勢に陥ったが、時恰かも不戦条約成立直後のこととて兩國政府も世界列國に對する盟約上、穏かに事件を解決せんとの意響あり、列強も亦等しく其の希望の下に注意斡旋を怠らず、 八月一日對露正式交渉の全權代表朱紹陽氏及び韓述曾氏を任命、國境に向つて出發(出発)せしめ、談判數次に及びたれども遺憾ながら遂に円満なる解決を見ず、代表委員は夫々に引揚げ、八月中旬に至り兩國の關係は再び険悪に陥り、同十九日には露國軍隊の満洲里砲撃などあり形勢甚だ楽觀を許さざるものがあった。

写真の右上は八月三日北平に於て二十餘團體参加したる反露市民大會の盛觀。
左下滿洲里の支那軍兵営。同上閉店したる滿洲里の商店。下段右對露交渉代表 朱紹陽氏。左同韓述曾氏である。

注)恰かも:あたかも

9月初旬には、アメリカのダウ(米国の平均株価)は異常な高値を更新し、株価の乱昇降の兆しが見え始めます。9月末には、イギリスが公定歩合の引き上げを行いました。経済的な危機は察知していたといえます。10月に入ると、前年5月から国交断絶状態だったロシア(ソビエト)と、イギリスの間で、急に国交回復交渉が進展し、相互の調印に合意するところまでは進んだようです。イギリスとしては、戦争している場合では無いという事でしょうか。

 

「歴史写真」の巻末の「世界日誌」の記事によると

「10月3日 一昨年5月国交を断絶したる英露両国間に於て国交回復商議進展し露西亜代表ドブガレフスキー氏は本日ロンドンに於て両国国交回復に関する文書に調印を了し英吉利代表のヘンダーソン外相も其の主張先に於て調印に了したり」とあります。

こうして、1929年の露支の戦争危機は一旦解消されました。しかしながら、ロシアによる世界経済への影響は大き過ぎたようです。10月24日のアメリカ株式市場の大暴落とその後の世界恐慌を止める事は出来なかったようでした。

蒋介石という人物は、日本だけでは無く、ロシア(ソビエト)にとっても非常に頭の痛い人物であったといえます。日本は満州とだけ国際貿易をしていたわけではなく、ロシアとも天然資源などの国際貿易関係にありました。お互いに上手く発展していたところを、ある意味「破壊」されたような事態だったといえます。