中原大戦の真相3-四面楚歌の蒋介石

中原大戦の真相3-四面楚歌の蒋介石

昭和5年7月(1930年7月)発行「歴史写真」から
昭和5年5月(1930年5月)四面楚歌の声の蒋介石

記事:

中華民國々民軍代表蒋介石氏の主義施政に反對する同國一方の重鎮 馮玉祥閣 錫山の兩氏は四方に同志の諸將 を糾合して、氏討伐の軍を起し、是に對して蒋介石は兵数こそ劣りたれ、敵軍のそれよりも遙かに精鋭なる武器と軍隊とを以て對抗し、兩軍互に死力を盡し、 天下分け目の大決戰今や清々進展しつつあるのであるが、此稿〆切 までは單に蒋軍不利の情勢にありといふ報道のみで、勝敗の數容易に逆賭し難いものがあった。

写真:

寫眞の右上は、決勝に先立ち軍艦『永 綾』號に搭乗、南京より漢口に向はんとしつつある蒋介石氏。

左下氏と一戰た決する覺悟の閻錫山氏は北平城内に於て新兵募集の傳單を貼り出し專ら軍備の充實を図っている。

左上は五月十九日北平に於ける討蒋市民大會に北平正陽門に張られた蒋氏夫妻を悪逆なる帝王に風刺したるポスター。

同下は徴發されて戦地に送らるる新兵

日本人は、日中戦争についてほぼ何も知らず、日本が中国を侵略したと思い込んでいると思います。しかしながら、真実は、日本は中国の侵略などしておらず、中国と戦っていたわけでもありません。日本は、蒋介石の政府軍と戦っていたのです。満州事変は1931年ですが、その前年の1930年には、蒋介石はこの「歴史写真」の記事が伝える通り、中国北部(北京=北平)地域や、中国東北部(満州)地域では、蒋介石を帝王=独裁者と揶揄するほどに、反蒋介石の気運が高まっていました。理由は、蒋介石の統治能力の低さと、やはり独裁者思考が原因だったといえるでしょう。1930年は、前年の1929年に世界恐慌が起きたため、イギリスの蒋介石への軍事支援も減ったといえます。1929年の世界恐慌までは、ロシア(旧ソビエト)に対しても、戦争を仕掛けるなど非常に強気でしたが、イギリスの軍事支援が滞った途端に、今度は、一気に劣勢に転じたといえます。

1928年の北伐完成の際は、南部の蒋介石政府側では、4大軍閥(蒋介石、李宗仁、馮玉祥、閻錫山)が連盟し、北部の北京政府軍(張作霖連合軍=奉天連合軍)と戦闘を繰り広げました。翌年1929年には、李宗仁が蔣介石に反旗を翻して離脱。その後は、馮玉祥、閻錫山の2大軍閥が離反して行きます。1930年の中原大戦の際は、奉天派の張作霖は列車爆殺により既に他界していたため、張作霖の軍事政権基盤の全てを後継した長男の張学良が、中国北部および東北部を実質的には統括していました。

「易幟の真相3-日本への影響」で述べた通り、中国北部および東北部は、「北伐完了」後は、蒋介石政府が日本排斥を徹底化したため、日本との国際貿易が不振となり、結果、深刻な不況が起こりました。馮玉祥、閻錫山も、元は北京政府の要人であり、蒋介石と組んだ理由も、本来は、平和で豊かな統一中国を達成するためであったはずです。ところが、結果は、蒋介石の独裁だけが進むことになりました。当然、こうした蒋介石の国家の繁栄や安泰を全く無視した政府政策には、見切りを付けざるを得なかったでしょう。

また、この頃には、馮玉祥、閻錫山など、北部の北京政府要人だった人物達は、蒋介石の支援国がイギリスとフランスであり、「北伐」=「中国統一」の真の目的が、イギリスやフランスの中国の植民地化にあることも理解していたといえます。実際に蒋介石の政府内に入れば、「北伐」での戦闘資金の殆どをイギリスとの対外軍事借款で賄ったいたことも、内部事情として理解したのではないでしょうか。馮玉祥は、元々は北部北京政府を構成してた直隷派に属し、閻錫山もまた北京政府の山西派でした。北京政府には、これ以外に、張作霖→張学良の奉天派と段 祺瑞の安徽派と、合計4つの軍閥が存在しており、馮玉祥、閻錫山が蒋介石と軍事対立するに当たっては、奉天派と安徽派とも何らかの連携を取ったとしても不思議は無かったでしょう。

以下は、閻錫山の新兵募集の張り紙

以下は、戦線に向かう募集新兵

満州国の独立は、1932年です。その前年の1931年が満州事変です。その前年の1930年は、中原大戦=第2次支那動乱が勃発しています。この時は、中国の北部や東北部ではなく、中国の中央部(黄河と揚子江に挟まれた地域)が戦場となりました。奉天派と安徽派は参戦せず、黄河より北部東北部へ戦火が広がらないようにしたともいえます。

1930年(昭和5年)の世界日誌では、以下のような記事があります。

8月24日:支那の戦乱に於いて蒋介石軍形勢益々好転し、蒋氏は隴海、平漢方面に総攻撃令を発したり。

隴海平漢共に中国の中央部(黄河と揚子江に挟まれた地域)です。蒋介石との戦闘地域を、中国中部や南部へ集中させ、奉天派と安徽派の軍閥勢力は温存。蒋介石は、「北伐完了」後の1929年、ロシア(旧ソビエト)との戦争を企画し、同時に、中国国内の共産党勢力の徹底的な弾圧に乗り出します。毛沢東の2人めの妻を処刑したのもこの頃です。1930年は、共産党勢力とも大きな文二衝突を繰り返していました。

8月25日:曩に(さきに)支那長沙を占領したる有力なる共産党朱徳、彰徳懐等の連合軍約5千名大挙して再び長沙に迫れりとの報あり。

長沙という都市は、中国の南側の大河である揚子江の南側、湖南省に位置します。馮玉祥、閻錫山が、北部や東北部の旧北京政府側に出戻ったとすれば、当然、蒋介石政府からの「離脱」や「分離」を志向したでしょう。蒋介石は、イギリスへの軍事借款の返済の義務がありますので、北部東北部の石油や鉄鉱石などの天然資源を返済原資にしたいところです。旧北京政府側にすれば、自分達とは全く関係の無い、迷惑極まりない「北伐」の為に掛かった南部政府側の費用を、わざわざ提供する必要もありません。むしろ、北部や東北部が、南部の蒋介石政府と「統一政府」でいることにより、蒋介石の軍事借款の巨額債務を共有することになってしまいます。この蒋介石政府の実態を知れば、馮玉祥、閻錫山のみならず、旧北京政府側が「分離独立」を目指すのは自然な流れです。

中原大戦に続く、翌年1931年の満州事変は、こうした旧北京政府側の止むを得ない事情があって勃発したことです。日本にとっては、北部や東北部との天然資源の国際貿易は、国家の経済活動としては必須であり、旧北京政府側とは「大きな利害の一致」が起りました。要は、北部、東北部が、蒋介石政府から完全分離し、国家として独立してしまえば、蒋介石の軍事借款による巨額債務については、全く別の国家ですので、弁済責任は消滅します。そのため、まずは、東北部の独立を目指したといえます。それが満州国の建国が必要であった最大の理由でしょう。

その目的だったとすれば、将来の軍事クーデター勃発の際には、蒋介石政府側の軍事力を出来る限り弱体化しておく必要があります。そのため、戦場を、中国の中央部中原地帯(黄河と揚子江に挟まれた地域)から以南で敢えて展開し、蒋介石政府の経済基盤地域を破壊し、蒋介石政府軍に経済面でも打撃を与えられるような戦略が取られたのでは無いでしょうか。

1930年は、共産党との軍事衝突もあり、蒋介石政府軍は当初非常に劣勢でしたが、8月下旬には、勢力を盛り返して来ています。一方、南部、北京の蒋介石政府に対し、9月9日、閻錫山は、北京に北方国民政府を樹立し、対立して行きます。

1930年(昭和5年)の世界日誌では、以下のような記事があります。

9月9日:支那の閻錫山氏は本日午前七時北平(北京)懐仁堂に於て国民政府主席に就任、同時に汪兆銘、謝持両氏委員に就任し、閻氏は起って宣誓し司会者の祝辞と委員の答弁あり泰楽裡に八時終了、茲に北方国民政府は完全に成立を告ぐ。

国家として国際承認されていなくとも、独立政府を宣誓するということは、それ自体がある意味、国家独立の意味を持つと言えます。1930年は、9月に至り、再び、北京、南京に、政府が完全に分離することとなりました。これは、植民地政策の進行という観点で見れば、国家が二分して戦闘状態に陥っている事態であり、非常に危険な状況です。本来、北部東北部の北京政府が、「北伐」や「張作霖の暗殺」という事態を乗り越え、「中国統一政府」を実現しようとしたのも、こうした植民地化への危機があってのことです。

中原大戦=第二次支那動乱の結果、再度、政府が南北に分かれる事態となった爲、ようやく奉天派の張学良が「まとめ役」として出て来ることになりました。現在の歴史認識では、張学良は、張作霖の長男で、王子様の如く育ち、どちらかというと「無能な将軍」というイメージのようですが、実際には、相当の「軍師」であり「策士」であったと私は考えています。

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