易幟の真相3-日本への影響

易幟の真相3-日本への影響

蒋介石の北伐完成後、北部の北京政府は解体消滅し、12月の年末には「易幟」が決まり、翌年1929年1月1日から、中国北部(北支=北支那)、特に、東北部(満州地域)での政府旗(=国旗)が、「青天白日満地紅旗」に変更されることになりました。これは、中国全土が蒋介石政府の統治下に入ったことを意味します。結果、反日抗日の動きが満州全土まで拡大し深刻化することになりました。また、その結果、北部や東北部、かつて北京政府の統治下であった地域では、経済が滞り、深刻な不況に見舞われることになりました。

昭和4年2月(1929年1月)発行「歴史写真」から
昭和3年12月(1928年12月)支那北平に於ける排日運動と不景氣

右ページ

左ページ

記事:

從來支那で排日の氣勢の最も盛なのは南方であっ たが北京政府の没落と共に排日運動ば漸く前の北京即ち今の北平にまで及ぼし來り最近に至って對日感情益々深刻に悪化し、反日會は頻りに流言を放って一般民心を動搖せしめ前途甚だ憂慮に堪へ いものがあるのである。

写真:

寫眞ば北平に於ける排日運動の情勢及び同地に於ける不景氣其他の狀態を示したもので、前の頁の

右上は北平第三集團軍總令部の反日大會に同軍訓練部の學生團が排日の宣傳ビラを撒布しつつ會場に入らんとする光景。 左上は同日少年團の市中示威運動、

左下は市中に 貼出された對日經濟絶交のポスター。

後の頁の右は對日感情惡化の爲め反日會に依り猛烈なる惡宣傳を蒙り遂に閉店の徐儀なきに至った日支合辦の中華滙業銀行發行兌換券は、目下市中に於て全く通用をなさなくなった 爲め、是を市中の兩換店が五割引の 安値を以て買い出したので兩換店の 前ば押すなくの盛況を呈しつつあ る光景。

左上は北不市が近年稀に見 る不景氣に襲ばれ下層細民等ば餓と寒さとに死亡するもの續出する時、 救世軍から配給された栗粥に貧民の群が舌鼓を打ちつつある光景。

左下は市內電車の從業員が會社に對する不滿から一齊にストライキを開始 し、電車は公共の交通機關である故 平日通り運轉げするが會社當局の反 省を促する爲め、切符を賣らずに誰でも無賃で乗車させるといふので電 車は總て鈴なり満員の有様である。

注1)從來:従来 / 氣勢:気勢 / 對日:対日 / 寫眞:写真 / 宣傳:宣伝 / 經濟:経済 /
   日支合辦:日支合弁 / 兩換店:両替店 / 會社當局:会社当局 / 運轉:運転

注2)

中華滙業銀行:滙は為替送金の意味。当時、北京では日支合弁の為替送金を取り扱う銀行があり、北京政府の没落(消滅)により、経営破綻状態に陥ったといえる。

兌換券:銀行が額面と貨幣との引換に使う発行券。国内で外貨を流通させない目的で、外国通貨と交換出来る「紙幣」価値を持った銀行券。当時は日本との輸出入で利用されていたと思われる。

対日経済絶交のポスター(拡大)

1929年1月1日からの「易幟」からは、「北京」という都市名は「北平」という名称に変更されます。これも、蒋介石が、中国南部の南京を政府所在地として蒋介石政府(南京政府)を樹立したことから、北部の北京政府の政府所在地であった「北京」は、蒋介石の統一中国では「首都ではない」ことを明示する必要があったためです。「北京」は、もはや「京」ではなく、「平」であり、単なる「平地」という意味合いも含まれたかも知れません。これも、300年以上に渡って支配層であった「満州民族」からすれば、大変な屈辱であったのではないでしょうか?

また、それまで、北部政府の下で運営されていた銀行などの金融機関、電車などのインフラ機能は、北部の北京政府が機能しなくなったと同時に、麻痺状態に陥り、都市部は大混乱状態になりました。また、南部の蒋介石政府の反日抗日主義の影響により、「日本との経済関係を断つ」とポスターを掲げてまで、排日運動が本格的に展開されていったため、対日貿易で潤っていた北部経済は、近年稀に見 る不景気」状態に陥ります。この事からも、北京政府は単なる北部の一政府ではなく、北部として独立した「国家」として政府機能を果たしていたことが伺えます。

蒋介石という人物は、権力志向が非常に強いものの、統治力や経済対策など、国家としての機能運営については全く無頓着であり無知に近かったとしか言いようがありません。満州地域の経済基盤を狙うのであれば、天然資源の最大輸入先であった日本とは友好的関係を保つべきだったでしょう。権益を奪ったところで、結局は、日本との輸出入関係になることは必須です。もちろん、初めから日本も含めて植民地化を図る目論見であれば、北京政府を消滅させた時点で、北部や東北部(満州地域)の経済への大打撃を与え、日本を含め、中国を経済崩壊へ導いたとしても不思議はありません。

昭和4年3月(1929年3月)発行「歴史写真」から
昭和4年1月(1929年1月)排日と日支の交渉

記事:昨今頻りに排日の 氣勢を擧げつつあ支那北平の反日會では今や日貨の排斥に全力を盡しつつあるが、最近市中の要所々々に反日會囚籠と稱する檻を設け日貨排斥に反對した支那商人を打込み衆人に梟さうといふのである。

 写真:寫眞ば同市前門外に設けられた籠籃である。

(左上)漢口に於ける排日運動は益々猖獗を極め同地糾察隊の暴行甚だしきに依り二月十三日には 我陸戰隊租界に土嚢を置き又鐵條網を設けて警備を固むる等事態容易ならざるものがあった。

(同下) 南京事件、済南事件其他に關し日支交渉を開始すべく我が芳澤駐次公使は上海に赴き、一月廿五日以來支那の代表たる南京政府の王外交總長と数次の會見を重れたが交渉未だ纏らない

稱する:称する / 猖獗(しょうけつ):悪い物事がはびこり勢いを増すこと / 糾察隊:警戒隊(治安維持隊)/ 廿五日:二十五日 / 纏らない:纏まらない(まとまらない)

翌月の「歴史写真」でも、北京(北平)での排日運動が激化している事態を報じています。北部の北京政府の代わりに、南部の蒋介石政府(南京政府)の治安維持代が配置されたものの、日本租界への襲撃が繰り返され、邦人保護の目的で、日本軍が土壌や鉄条網を設ける程の深刻な状況でした。

この時の南京事件とは、1927年3月24日、蒋介石軍(南軍)が南京を軍事占領した際に、日本領事館を襲撃し略奪、暴行、強姦、虐殺に及んだ事件のことを言います。その直後には、漢口の日本時租界の襲撃もあり、その前年には上海領事館の爆弾事件も発生しており、当時も、蒋介石が日本に対して、残虐横暴を繰返していたといえます。ー(「北伐の真相4ー蒋介石軍の南支攻略」参照)

もちろん、当時の日本の軍事力では、蒋介石との戦争には全く勝ち目が無く、その為、基本的に無抵抗にならざるを得ない状況でした。こうした残虐行為は、それを理解した上での行為でした。蒋介石も、中国の植民地化を目論んでいたイギリスも、欲しかったのは日本が持っていた満州鉄道の利権と周辺の天然資源の掘削開発権です。

日本から戦争を起こさせ、その上で、日本が負ければ、損害賠償としてそうした利権を一手に奪えます。当時は、北部の北京政府が劣勢に至り、日本を守る勢力が一時的に失われた時代であったため、蒋介石の手口も相当過激化していたようです。中国北部でも東北部の満州でも、排日や反日の運動が激化して行きました。

北部の北京政府の統治下であった地域、また、彼らと経済協力し中国に多額の投資を既に行っていた日本にとっては、こうした問題を根本的に解決するには、蒋介石の政府から、国家として分離独立するしか無かったといえます。こうした理由から、満州国の分離独立の方向へ向かって行ったのです。