中原大戦の真相4-張学良による停戦

中原大戦の真相4-張学良による停戦

1928年6月の張作霖列車爆殺事件、直後の北京無血開城、1929年1月の易幟(政府旗の変更)、その後の蒋介石の独裁化を受け、1930年には遂に、中国は再び南北に分かれて軍事対立する事態に陥ります。1930年9月に、北部側の閻錫山が、北平(北京)に北部国民政府を樹立宣言し、南部の蒋介石の国民政府から、完全分離を図りました。そこで、それまで情勢を静観していた奉天派の張学良が、遂に、この政府分裂の解消に乗り出します。一般的な歴史では、張学良が「中原大戦」を終焉されたという事実は知られていません。この事実を知らないため、張学良が単に南京政府へ加わった、又は、蒋介石に賛同したかの様に誤解されている方々も多いのでは無いでしょうか。

昭和5年11月(1930年11月)発行「歴史写真」から
昭和5年9月(1930年9月)其後の支那

記事:

南方国民政府に対立して北方国民政府愈々成立し、九月九日朝、閻錫山氏は北平懐仁堂の大禮堂に於て同政府主席就任式を挙行し、北負の要人悉く参列して盛会を極めたが、それも束の間、是まで満を持して放たざりし奉天の張学良氏同月中旬突如南北両政府に対し武力調停を申込み続々大軍を動かし始めたるを以て北平警備の任に当たりたる閻錫山の山西軍は形勢不利と見て北平を放棄することとなり閻錫山氏は下野を声明し、九月二十日山西軍は平漢線より続々退京し、是に代って奉天軍は同二十三日北平西直門に到着し隊伍堂々入城して無事平穏裡に同市の警備を引き継いだ。写真は即ちその状況。

注)愈々:いよいよ / 大禮堂:大礼堂 / 悉く:ことごとく / 北平:北京

上記の記事には、「閻錫山の山西軍は形勢不利と見て北平を放棄する」とありますが、北京に北方政府を樹立した本人が、数日後の張学良の停戦調停の呼びかけを受け、あっさり退いています。当然、閻錫山と張学良の間で、水面下での「停戦」に関する「協議」が事前にあってのことでしょう。閻錫山は馮玉祥(21名の配下)と連盟し、蒋介石と軍事衝突していました。張学良は「大軍を動かし」たため、閻錫山は北平(北京)を放棄したとあります。これは、この時点で、張学良が、閻錫山は馮玉祥の連合軍を停戦させる程度の「大きな軍事力」を保持していたことを意味します。蒋介石軍は、「北伐」時の実質4分の1の勢力しか無く、共産党との戦闘も激化していた時期でもあり、「停戦」に即座に応じたでしょう。一方、閻錫山と馮玉祥は、張学良と連合軍を形成出来れば、軍事的な勢力差としては、蒋介石を十分に討伐出来た可能性があります。しかし、張学良の呼びかけで、南北の内乱を収束に応じました。

その後は、閻錫山と馮玉祥に代って、北部東北部側の統括者として、張学良が、蒋介石の政府に本格的に合流して行きます。「張作霖爆殺事件の真相」での説明の通り、蒋介石は、張学良にとっては、父親の仇(かたき)です。蒋介石が張作霖を暗殺したからこそ、蒋介石による南北政府の統一が達成出来たのです。日本は、張作霖の北京政府にとっては、満州蒙古地域の天然資源の「最大の輸出先」であり、ビジネスパートナーでした。蒋介石の「北伐」により多くの日本人が「虐殺」や「略奪」など、無差別攻撃による被害を受けており、戦争終結を最も望んでいたのは日本です。その北部の「中心人物」である張作霖を日本が暗殺することなど有得ません。張学良も、この事実については、十分理解いたでしょう。それにも関わらず、この時点では、蒋介石の討伐を行わず、むしろ、蒋介石に「友好的」な結論である「停戦」へ持ち込んでいます。これは、ある意味、蒋介石に恩を売る形であったとも言えるでしょう。

では、なぜ、こうした対応に出たのかですが、要は、この時点で、閻錫山、馮玉祥、張学良その他、北部の元北京政府の要人たちは、中国東北部である満州地域を、中国そのものから分離し、満州国として独立する計画であったからといえます。奉天派の張学良は、1929年1月「易幟」の頃からは、満州地域の分離独立を視野に動いていたかも知れません。もっと言えば、張作霖が「北京無血開城」を行い、満州の奉天へ帰還した時点で、北京以南を一旦放棄し、満州地域の分離独立へ向けて本格的に動く目論見だったかも知れません。蒋介石が、この動きを察知していたかは不明です。しかしながら、こうした動きを少しでも懸念すれば、やはり張作霖という「中心人物」は完全に葬り去る必要はあったといえます。

張学良は、迂闊に満州地域の独立に向けて動けば、自分自身が暗殺の対象になることも理解していたでしょう。最も安全で確実に、北部東北部の意図(=満州分離独立)を隠し、独立を達成するには、北部東北部の総統である張学良が、蒋介石の政府へ合流してでも、戦略と体制を整える必要があったといえます。

また、張学良が、閻錫山、馮玉祥と連合し、蒋介石の討伐に討って出れば、蒋介石の背後にいるイギリスがフランスやアメリカと連合し、中国全土を戦場とした大きな戦争が予見出来ます。戦争は、国内の経済基盤の徹底的な破壊に繋がります。蒋介石に、正面から対立し、中国という国を滅亡させる事態を招くより、張学良が、自ら、「おとり」となり、「盾」となり、その背後で、自分の故郷である満州を分離独立させ、「確実に守る」方策を取った方が、賢い選択だったと言えるでしょう。そのため、張学良は、「無能なお坊ちゃん」として振る舞い、反日抗日を自ら積極的に公言し、蒋介石に疑われないよう振舞っていたといえます。

昭和5年9月(1930年9月)最近の張学良氏

上記の写真は、「中原大戦」=「第二次支那動乱」の停戦調停を1カ月後に控えた8月中旬、北京の東へ300キロ程に位置する北載河という避暑地で撮影されたものです。中央で、水着を来て人力車に乗っている人物が張学良です。この写真を8月19日に撮影し、「張学良の近況」として報道すれば、張学良を良く知らない人物であれば、張学良は相当に「間抜けで無能な人物」だと思うのでは無いでしょうか?

北載河の位置:以下の赤い点の場所

 

当時、中国の北部では、閻錫山が、南部の蒋介石の政府から独立し、北京に北方国民政府を樹立しようとしている矢先でした。中国の中央部では、「中原大戦」と呼ばれるほどの戦闘が繰り広げられており、この状況で、中国の北部東北部の総統の立場にいるはずの人物が、のんきに「海水浴」に興じているのです。ですが、これを報道しておいて、翌月には、中原大戦を停戦に持ち込み、その後は、蒋介石側に付いたような動きを見せています。

昭和5年9月(1930年9月)北平入城の命令を待つ

以下の写真は、「其後の支那」のページ内、左上の写真を拡大したものです。これは、張学良の率いていた奉天軍が、閻錫山の率いていた山西軍が北京から退城し、入れ替わりに北京へ入城するため、指示を待っているところです。中央左の兵士がお茶を飲むほど、「平和的な軍隊撤収」だったことが伺えます。

当時は、満州と日本は、天然資源ビジネスにおける経済的パートナーとしても、中国の植民地化の阻止における政治的パートナーとしても、密接な関係にあったことは事実です。そのため、張学良が自ら「おとり」を演じる程の「策士」であったことは隠され、日本が満州を支配する目的で、全てを牛耳っていたような話になっていますが、実際には、張学良が、満州を分離独立される目的で、全てを陰で動かしていたと言えるでしょう。

現在の一般的な歴史では、中原大戦は、張学良が停戦させたことは殆ど知られていない事実といえます。また、張学良の父親である張作霖が、誰に、何の目的で暗殺されたかを正しく理解出来ていないため、日本軍が暗殺したことのなっており、その結果、張学良の動きも「意味不明」にしか思われていないようです。

しかしながら、この張学良という人物は、幼少期には「神童」と言われた程に「知能の高い」人物であり、何よりも、北部東北部の総統であった張作霖の息子であった人物です。満洲人として、満州を死守するためなら、何でも遣る覚悟だったのでは無いでしょうか。蒋介石に近づき、自ら「おとり」となり、ある意味「人質」となることで、満州を独立へ導いたといえるのでは無いでしょうか?

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