昭和12年(1937年)10月は、保定より更に南下し、石家庄(石家荘)を占拠しました。この辺りも、馮玉祥の軍事管轄でしたので、楽々、入城だったはずです。 また、河北(華北)5省を平定し、蒋介石政府からの分離独立を達成しま…
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昭和12年(1937年)8月8日に、無血開城にて北京を陥落した後、北西方向、南西方向、東南方向へ別れ、黄河の北部一帯の主要都市を占領下に置き、蒋介石政府軍の追出し作戦を展開して行きました。 昭和12年11月(1937年1…
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昭和12年(1937年)9月には、北京の南西部の都市である保定を陥落します。保定(ほてい / パオティン)という都市は、北京の南西、黄河の北側にある河北省中部の商業都市です。北京から中国南部へ抜ける交通の要所であり、清代…
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昭和12年(1937年)9月には、保定方面へ進軍を開始し、まずは、北京の南側に流れる大河、永定河を渡りました。 昭和12年11月(1937年11月)発行 「歴史写真」 から 昭和12年9月(1937年9月) 永定河の敵前…
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北支(北支那)は、昭和12年(1937年)8月8日に北京を無血開城した後、北京の北西方面から太行山脈の間を抜けて内蒙古側の綏遠へ抜けるルートへ進軍して行きます。日中戦争では、日本軍は極めて劣勢であり、本来であれば、絶対に…
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新支那中央政府樹立の慶祝には、東京の日比谷公園で行われ、公園を埋め尽くす程に人々が集まりました。日本人も、当時、我らが友である中国人の方々の新たな門出を祝ったのです。 新支那中央政府の樹立については、中国だけでは無く、日…
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汪兆銘は新支那中央政府の樹立後、北部の張家口、北京、南部の広東、蒋介石が政府を移したといわれる漢口、武漢などを訪問しています。一般的な歴史理解では、汪兆銘の政府は、日本の傀儡政府であったため、中国の民衆の支持を得られなか…
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1940年3月30日の汪兆銘氏の南京還都宣言に続き、1940年4月26日、新支那中央政府の樹立と南京還都を祝して、日中での盛大な慶祝典が開催されました。日本側からは、新支那中央政府の樹立に尽力した阿部大使が日本代表として…
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昭和15年(1940年)3月20日、新支那中央政府が遂に樹立しましたが、旧北京政府にとっては、屈辱ともいえる「易幟」からは12年。孫文の死により「南北の平和的政府統一」が頓挫してからは15年の歳月が流れていました。 19…
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1928年6月「北伐」により、蒋介石に「中華民国」を奪われてから10年近い年月を経て、現在、日中戦争と呼ばれる「反蒋介石戦争」を経て、昭和12年(1937年)12月、北京政府はようやく「中華民国」を奪回しました。そして、…
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