新支那中央政府樹立の真相9-日本の慶祝国民大会

新支那中央政府樹立の真相9-日本の慶祝国民大会

新支那中央政府樹立の慶祝には、東京の日比谷公園で行われ、公園を埋め尽くす程に人々が集まりました。日本人も、当時、我らが友である中国人の方々の新たな門出を祝ったのです。

新支那中央政府の樹立については、中国だけでは無く、日本の歴史としても、殆ど知られていません。私もかつては全く知りませんでした。しかし、これが、当時の日本の真実の歴史です。日本の近代史として、日中戦争に至った理由として極めて重要であると考えます。以下の写真記事のような確固たる証拠があるのですから、学校等でも取り上げ、日本人全員に、当時、我々が何をやっていたかを周知すべきと思います。

 

昭和15年5月(1940年5月)発行 「歴史写真」 から
昭和15年3月(1940年3月) 阿部特命全権大使装行国民大会

記事:

今回支那中央新政府成立の慶祝を兼ね、東洋永遠の平和確立の重要任務を帯び、前首相阿部信行大将特命全権大使に任ぜられ、南京に赴くことになりたるに就き、4月6日午後1時より日比谷公園広場に於いて、その壮行国民大会開催せられ、空前の盛観を呈した。

写真:

(右)は当日演壇に起ちて重責の覚悟を語る阿部大使。
(左上)さしもの大広場を埋め尽くした当日の参会者。
(左下)米内首相の祝辞

 

写真拡大ー東京の日比谷公園に集まった日本人市民

この新支那中央政府は、汪兆銘氏の単に地域的な政府ではなく、日本人と中国の5つの民族が、ヨーロッパ諸国の軍事勢力を背景に独裁に走った蒋介石を倒し、孫文氏の中国革命から続く長い戦いの末に、ようやく樹立した政府でした。

中国の植民地化を推進していたヨーロッパ諸国は、イギリスだけではなく、フランス、オランダ、ベルギー、そしてアメリカも含まれます。蒋介石が日本の10数倍の軍事力を保持していた事実を考えれば、当時アジアに植民地を持っていた全ての欧米諸国から多額の資金が流れていたと考えられます。

中国では、既に、2度に渡る大規模な内乱が起き、国内は疲弊の一途を辿っていました。これを打開するために、日本は旧北京政府と協力したのです。そして、日本は蒋介石との戦いで中心的な役割を果たし、蒋介石政府から分離独立を果たし、中華民国を奪回したのです。日本が「中国を占領し、同時に、蒋介石政府を潰滅」し、蒋介石が中国で二度と復権出来ないようにしたのです。蒋介石が中国で主権を主張するには、日本と戦争をして勝利する必要があります。政府も民衆も無ければ、日本に対して宣戦布告も出来ません。その後の東南アジアの占領も同じ戦術でした。

少数である日本軍にとっては、広大なアジアに軍隊を分散することは非常に大変な状況でしたが、日本の占領下に置き、欧米をけん制しつつ、各国、各地で、国家として復興と安定化を目指したのです。日本がここまで遣った理由は、我々日本もまた、アジアの他の国々と同様、植民地化という危機に曝されていたからです。新支那中央政府の樹立は、日本にとっては、長い年月を経てようやく到達した平和を意味したでしょう。

 

昭和15年5月(1940年5月)発行 「歴史写真」 から
昭和15年3月(1940年3月) 阿部特命全権大使装行国民大会

記事:

南京還都慶祝式典も滞りなく修了し、翌27日阿部大使の一行は、南京紫禁山下の孫文陵に参拝した。写真は陵前退出の一行。

写真:

(右上)阿部大使の南京入りに先立ち、能筆の誉れ高き仲作治氏が”大日本帝国大使館”の晴の看板を揮亳(きごう)しつつある有様。
(右下)国民慶祝使節一行が、4月25日南京郊外なる明考陵に参拝したる有様で、松平、小山、八田、庄司、永田諸氏の顔が見える。
(左下)慶祝に沸き立つ首都南京のお祭り風景。

注) 揮毫(きごう):毛筆で何か言葉や文章を書くこと。「 毫(ふで)を揮(ふる)う」

 

写真拡大ー阿部大使と慶祝使節団の孫文陵参拝

孫文陵への参拝へは、日本人は全員紳士の正装であるモーニングを着用しています。当時の日本人の、中国の革命の父である孫文に対し心からの敬意を込めた行動でした。

モーニング:皇室主催の園遊会、叙勲授賞式、格式の高い結婚式など男子の祝賀正装。

新支那中央政府は、北部政府と南部政府の平和的な統合でした。これは、孫文が最も望んでいたことでしょう。1925年3月、北京で亡くなる直前、孫文は、南部政府と北京政府とで分断した中国の統一するため、北京に出向いたのです。現在の歴史では、孫文はガンで病死扱いですが、わざわざ北京で療養する理由はありません。

孫文の死後、蒋介石が台頭し、翌年には「北伐」を開始しています。当然、イギリスの軍事支援が無ければ、蒋介石に軍隊を率いるなど出来る訳はありません。確かに「中国の統一政府の達成」は孫文の意志だったでしょう。ですが、孫文は日本とも親交が厚く、植民地化の危機についても理解していたでしょう。軍事制圧による北部の占領による統一を目指してはいなかったといえます。

一方、蒋介石は、「北伐」を起こし、「北伐」による軍事制圧による統一が孫文の意志であるかのような主張をしました。第一次、第二次と、蒋介石の北伐と、北伐は3回となっており、最初の2回は孫文によるものとされていますが、実際には「作り話」である可能性が高いでしょう。蒋介石が自分の軍事行動を、孫文の威光を借りて正当化するためです。

上記の蒋介石の北伐の「裏」にある欧米の植民地化危機を考えれば、新支那中央政府が樹立した後、汪兆銘と日本の特使が、それぞれに、孫文稜を参拝する意味の大きさが理解出来るのではないでしょうか?

日本の特使が、なぜ、蒋介石側であるはずの「孫文」に対して、統一政府樹立の報告のような参拝に出向いのかです。孫文が、平和的な統合を望んでいた証ではないでしょうか?

 

 

写真拡大ー南京市内のお祭り風景

上記は、南京でのお祭り風景の一枚です。新支那中央政府の樹立を、写真に納まりきれないほどの多くの一般市民が、パレードをして祝ったのです。

これも、戦後、「日本が中国侵略した」というシナリオを世界に信じ込ませるために、蒋介石が封印した「真実」であるといえるでしょう。