新支那中央政府樹立の真相5-新支那中央政府の樹立 2
1928年6月「北伐」により、蒋介石に「中華民国」を奪われてから10年近い年月を経て、現在、日中戦争と呼ばれる「反蒋介石戦争」を経て、昭和12年(1937年)12月、北京政府はようやく「中華民国」を奪回しました。そして、その約2年後、昭和15年3月(1940年3月) 新支那中央政府として、遂に、「平和的な南北政府の統合」を果たしました。
南北の平和的政府統合は、1925年に 孫文が北京で亡くならなければ、実現できていたかも知れません。そう考えれば、15年掛けた偉業だったといえます。戦後の、蒋介石による「歴史の捏造と歪曲」により、この政府の樹立にも、実際には、当時の中国共産党が水面下で大いに協力していた「歴史」も完全に葬り去られました。
蒋介石を中国本土から追放した後、「中華人民共和国」という新国家を安定化するには、アメリカとの国交断絶と同時に、アメリカの占領下となった日本との関係も断つ必要があったといえます。結果的に、蒋介石が、自分に有利に書き換えた「虚偽の歴史」が、その後も「正しい歴史」として定着したのです。
昭和15年5月(1940年5月)発行 「歴史写真」 から
昭和15年3月(1940年3月) 新支那中央政府なる(2)
記事&写真:
(右上)支那派遣軍総司令官西尾大将は、3月20日の夜、南京国際聯歡社(連歓社)に汪精衛氏(汪兆銘氏)を始め、中央政治会議の各要人を招待し晩餐会を催した。写真は、同招待会の席上、汪精衛氏(汪兆銘氏)が西尾対象の挨拶に対して答辭(答辞)を述ぶるところ。
(左上)同招待会に西尾大将が起ち、反共和平建国を目指す中央政治会議の開催を祝福する旨述べつつある有様。
(右下)3月20日中央政治會議開会を前に全員起立し、汪精衛氏(汪兆銘氏)の盟友故曾仲鳴氏を初め和平建国運動の犠牲となった先烈の霊に対し、1分間の黙禱(もくとう)を捧げつつあるところ
(左下)当日会議場に入らんとする汪精衛氏(汪兆銘氏)
注)答辭(答辞):式場で祝辞・送辞などに対して述べる答えの言葉。
先烈:殉教者
上記は、3月20日に執り行われた新支那中央政府の樹立を祝う晩餐会の記事です。政府の製作としては、反共産主義を掲げていましたが、そもそも、中国からイギリスを排斥するために、ソビエト(ロシア)とも日本や満州国などは水面下で協力体制にありました。しかし、共産党の台頭は、イギリスという抑止力を失った後の中国に、ソビエト(ロシア)の南下の可能性に繋がります。新しい中国の政府としては、反共を掲げ、ソビエト(ロシア)のけん制する姿勢に出たようです。
写真拡大ー会議前の黙とう
南北の平和的政府統合は、1925年に、孫文が北京で亡くならなければ、実現できていたかも知れない事でした。そう考えれば、15年掛けた偉業だったといえます。 その15年に、中国では、大きな内乱や戦争が続き、非常に多くの尊い命が失われました。会議開催前の黙禱(もくとう)は、各人が夫々に言葉では表せない深い想いで目を閉じたことでしょう。
昭和15年5月(1940年5月)発行 「歴史写真」 から
昭和15年3月(1940年3月) 新支那中央政府なる(2)
記事:
(右上)待望久しかった新中央政府愈々(いよいよ)成るの歓びに、南京全都は盆と正月同時に来る賑わいを呈し、新生支那の前途是よりして愈々多幸なるを思いはじめた。写真は、春日麗かに射しそう街路上、のんびりと洋車を走らす姑娘たち
(左上)3月20日中央政治会議第1日を終り、記者団に決意を発表して、トーキーに納まる汪精衛氏(汪兆銘氏)。
(右下)新政府樹立式を前に続々南京に乗り込む外国人記者団の一行。
(左下)3月20日、中央政治会議を警備する汪精衛氏(汪兆銘氏)の親衛隊が会議場に到着したる有様。
注)洋車 (ヤンチョ):人力車 (当時中国でも流行していたようです。
写真拡大ー南京の祝賀ムード
幟(のぼり)には、「中央政治会議是実現和平的序幕」とあります。中央政治会議こそが、平和を実現するための序幕(始まり)だという意味です。南京陥落以降、南京自治政府と日本とが都市の復興に努力し、この頃にはすっかり平和な日々が戻っていたようです。
南京陥落の翌日の1937年12月14日、南京政府と北京政府で、夫々に新政府が樹立しました。しかし、この2つの政府は、非常に距離があり、また、人種も、南は漢民族が中心、北は満州民族が中心と、対立し易い間柄でした。それを統一へ導くには、やはり「仲裁役や仲介役が必要ですが、この役目を当時の日本が担いました。
写真拡大ー汪兆銘の親衛隊
汪兆銘は、蒋介石の南京政府とは、協調体制を取ることはありましたが、孫文の後継者争いという意味でも、相互に対立する構図がありました。新政府樹立に当たっては、汪兆銘を守るため「親衛隊」が結成されました。こうした親衛隊や新政府軍の軍隊は、当然、かつて蒋介石政府軍に所属した兵士達であったことは言うまでもありません。
孫文と汪兆銘
汪兆銘は、孫文と出身地も一緒であり、汪兆銘、蒋介石、毛沢東の3人の中では、最も早い時期から孫文と関り、孫文の南部政府でも「側近」として政府に関わっていました。汪兆銘は、孫文が北京で死去した際、最期を看取ったのは汪兆銘だったと言われています。孫文も、北部政府(旧北京政府)も、中国国内での「大きな内乱」を回避する必要性を理解していました。孫文は、南部政府の代表として、北部政府の呼びかけに同意し、「平和的な南北政府統合」を実現するため、北京に出向いたのです。
汪兆銘が北京にいたのであれば、当時、すでに、新支那政府構想については知っていたといえます。なぜなら、北京政府の国旗が「五色旗」であり、異なる5つの色は、中国の5大民族を象徴しており、大小の区別なく並んでいるというデザインが、この新支那政府構想を意味しているからです。北京政府との関係、また、日本との関係も、この頃から続いていたといえます。
一方、孫文が死去(暗殺された)した際、蒋介石は、広州の軍人養成学校(黄埔軍官学校)の校長にしか過ぎませんでした。蒋介石も、孫文に評価された人物でしたが、既に、この時点で、政府内からは排斥されていたのです。孫文は、早くから、蒋介石の利己的な性格、好戦的な気性、更には、残忍性などに気が付いていたのでしょう。軍隊の司令官の地位にすらありませんでした。それが、孫文の死後には、南部政府の代表者の地位にのし上っています。そして、イギリスの全面的な軍事支援を得て、北伐を起こし、北京政府を潰滅しました。孫文は暗殺されたのであり、暗殺した人間が蒋介石だったとしか言いようがありません。
当然、正しい歴史としては、孫文の後継者は汪兆銘です。蒋介石ではありません。
孫文と蒋介石と中華民国
蒋介石は、中国の主権を手に入れるため、イギリスと手を組み、欧米の植民地化政策での「中国内での手先」となった人物です。あれほど巨大な孫文廟を建設した理由も、自分が孫文を暗殺した主謀者であると言う「疑い」が掛からないようにするためだったのでしょう。孫文を、これ程慕っていた人物が暗殺などする訳ないという印象を与えるためです。蒋介石は、「北伐」も「孫文の意志」だとしました。結局、「北伐」という大内乱の責任を孫文に押し付けたのです。
そうして蒋介石は、自分が奪った「中華民国」を、まるで孫文が建国したかのように歴史を歪曲しました。孫文が初代大統領であるから、「中華民国」を奪回したかのようにです。普通に考えて、広東の革命勢力の孫文と、敵対していた清帝国の軍隊の袁世凱が、一緒に政府を樹立するなど不可解過ぎます。日本では、徳川家が統治者として大政奉還しましたが、執政権を天皇に返したのであり、直接、敵対していた革命派の薩摩や長州に渡したわけではありません。増してや、同じ政府を作るなどありませんでした。徳川家は、新政府への参加は断固として拒否していたことは有名な話でしょう。日本という小さな国でも「無理」であるのに、大国の中国で、それも、南京と北京に遠く離れた人物達には、接点さえ無かったでしょう。
蒋介石は、戦前は日中戦争、戦後は共産党との戦争、2度に渡り、中国から追放されたにも関わらず、「孫文が中華民国を建国」した、「北伐は孫文の意志」であり、「自分は孫文の正式な後継者」であるから、「中華民国は自分のもの」という理屈を掲げ、台湾で死ぬまで、自分の正当性を主張し、日本と新支那中央政府の樹立に関わった中国人達を「中国の侵略を助けた裏切り者」だとして世界中に虚偽情報を拡散し続けました。自分こそが、「中国侵略=植民地化」の主謀者だったにも関わらずです。
この歴史訂正サイトが、辛亥革命から始まっているのは、上記が理由です。中華民国の建国の段階で、歴史が歪曲されており、そこが蒋介石の「正当性の根拠」になっているからです。
汪兆銘に対する歴史評価は正されるべきと思います。