新支那中央政府樹立の真相6-汪兆銘の南京還都宣言

新支那中央政府樹立の真相6-汪兆銘の南京還都宣言

昭和15年(1940年)3月20日、新支那中央政府が遂に樹立しましたが、旧北京政府にとっては、屈辱ともいえる「易幟」からは12年。孫文の死により「南北の平和的政府統一」が頓挫してからは15年の歳月が流れていました。

1928年6月の「北伐-北京無血開城」と「張作霖暗殺」、1928年12月の「易幟」により、旧北京政府は、南部政府の蒋介石に「中華民国」を奪われました。中原大戦(反蒋介石戦争)が起こりましたが、国内が疲弊するだけで、国家奪回には至りませんでした。そこで、旧北京政府は、日本と協力し、まず、「満州事変」を起こし、1932年3月に「満州国」を建国しますした。これは、蒋介石に対抗すべく、経済基盤、軍事基盤を整えると同時に、蒋介石が「軍事借款の返済財源」として狙っていた中国東北部(天然資源)に迂闊に軍事進出出来ない状況を作りました。イギリスが興味を失えば、蒋介石へ支援するメリットが無くなります。「満州国」建国は、「中華民国」奪回戦略の基礎固めといえたでしょう。

そして、5年後、1937年7月に「北支事変」を起こし、北京(首都)を奪回し、翌月、1937年8月に「第二次上海事変」、及び、「日本軍の上海上陸」から始まる戦いにより、1937年12月に、蒋介石政府の首都だった南京を陥落します。南京陥落と同時に、北京臨時政府の樹立と南京自治政府の成立を達成しました。

4か月後の1938年3月に南京維新政府として正式政府を樹立し、日本軍が中国各地を巡り、圧勝を重ね占領下に置いていきます。翌年、1939年7月、蒋介石の最後の砦だった重慶を爆撃し蒋介石政府を完全潰滅します。同時に、1939年7月の日英会談でイギリスの中国撤退を約束させます。そこから、1939年9月の第1回3巨頭会談、1940年1月青島会談を経て、1940年3月20日、ようやく中国5大民族国家による「大きな中国」を目指し、新支那中央政府が樹立しました。

以下は、昭和15年(1940年)3月30日、汪兆銘が、蒋介石から南京を完全に奪回したことを、正式に国内外に宣言した際の記事です。

昭和15年5月(1940年5月)発行 「歴史写真」 から
昭和15年3月(1940年3月) 南京新政府の還都宣言

記事:

汪精衛(汪兆銘)氏を首班とする新支那中央政府の南京還都宣言は、三月三十日午前十時より舊(旧)国民政府考試院大禮堂に於ていと盛大に舉行せられ、汪精衛氏は国民政府主席代理の資格を以て極めて厳かに歴史的国民政府還都宣言を朗讀し、和平を實現して憲政を實施し、獨裁を打倒して自由を回復し以て中華民国の眞生命を創造する旨力強く宣明した。

写真:

(右上)當日五院十四都の大官記念撮影。
(左上)汪精衛(汪兆銘)氏が歴史的還都宣言をなしつつある光景。
(右下)當日上海に於ける還都慶祝の大花火
(中下)南京に於ける還都慶祝民衆大會。
(左下)漢口に開かれた還都慶祝パーティに於て愉快に乾杯する伊太利總領事ブリジッヒ氏である。

蒋介石は、アメリカ軍の軍事力を背景に「台湾」を奪い、毛沢東により「中華人民共和国」から追放された後も、「台湾」を「中華民国」だとして、最期まで中国での復権を狙っていたようです。1972年、米中国交正常化に継ぐ、日中国交正常化により、日本は台湾との国交を断絶しました。これは日本との国交回復の条件だったのではと思いますが、それだけ中国にとって、蒋介石という存在は脅威であったといえるでしょう。

また、蒋介石統治下の「台湾」が「蒋介石の独裁国家」であったことは有名な話です。新支那中央政府の樹立を中国の大衆がこれ程盛大に祝った事実を見れば、中国本土での統治時代は、独裁というより、恐怖政治に近い様相でだったのでは無いでしょうか?  当時の記事に、「独裁を打倒して自由を回復」という言葉が記載されるほどの悪政であったことは事実でしょう。

 

写真拡大ー汪兆銘の歴史的還都宣言

汪兆銘の後ろには、孫文の写真が飾られ、「青天白日満地紅旗」が飾られています。これは、「易幟」の際に、南北政府の統一を示す旗として作られたものでした。赤は漢民族を象徴する色です。左上の「青天白日旗」は孫文を象徴する旗といえます。ここから、「中国本土の漢民族が孫文の意志により平和的に纏まる」という意味が含まれたといえるでしょう。汪兆銘も、また、「自分が孫文の正統な後継者」であると示したといえます。

蒋介石は「北伐(軍事制圧)」により南北統一を達成し、「北伐(軍事制圧)」を孫文の意志だとしました。一方、汪兆銘は、「平和会談」により南北統一を達成しました。「青天白日満地紅旗」を採用することで、「平和会談」こそが「孫文の本当の意志」だったと示したかったのかも知れません。だからこそ、「平和会談」での南北政府統一を達成した汪兆銘こそが、孫文の本当の後継者だと示したかったように思います。 敢えて、蒋介石が「易幟」の際に採用された旗を採用したように思います。北伐は孫文の意志では無いという意味を込めてです。

上記は「歴史写真」という月刊誌の一枚ですが、蒋介石と汪兆銘の後継者争いの様相を示す一方、中国での政権変遷の歴史を示す、歴史的には大きな意味を持つ写真といえるでしょう。

 

写真拡大ー五院十四都の大官記念撮影

上記の写真を見るだけでも、この新支那中央政府が日本の傀儡政府などでは決して無かった証拠だといえます。これだけ多くの中国人の政治家や政府要人が集結するほどでした。中国人が、自分達の力で、蒋介石の独裁を打倒し、打ち立てた新政府だったのです。

戦後は、蒋介石が中国で復権するためには、自分が中国から完全排斥された事実は隠ぺいする必要があります。中国共産党は、こうした経緯を深くは知らなかったでしょう。日本の敗戦と同時に、急に、中国全体を背負う立場に躍り出た状況だったと考えます。毛沢東は、蒋介石とも、「平和的な共存」を期待したでしょう。しかし、蒋介石は、中国の主権を奪うため、アメリカを軍事利用したのです。

当時は、中国全体からすれば、中国共産党は勢力としても規模が小さかったでしょう。強大なアメリカ軍と共に攻め込まれ、蒋介石と毛沢東の戦争は4年にも及びました。当然、それまで反蒋介石派だった新支那中央政府を構成する人々や軍隊が、中国共産党側に付くことになりました。戦争は長期化し、収束が見えない中、アメリカが蒋介石の軍事支援から完全に手を引きました。

毛沢東が勝利し、中国は守られましたが、以前の政府に付いては、上記の様な写真を見る機会もなく、蒋介石による嘘の歴史として、「新支那中央政府は日本の傀儡政府」であり、「日本は中国を侵略しアジアを支配しようとした」という話を信じたといえます。

写真拡大ー南京の還都慶祝民衆大会

南京では、大量の市民が祝賀大会に幟をもって繰り出すほどでした。日本が中国を侵略し、新支那中央政府は日本の傀儡政府であるなら、そんな政府樹立の祝賀に、中国人の一般市民がこれほど集まるなど有得ません

こうした状況が起きたのも、南京での、蒋介石の独裁が極めて劣悪だったからでしょう。当時の南京の一般市民の心情を非常に良く物語る写真でしょう。これほどの人々が、新しい政府の樹立を待ち望んでいたのです。汪兆銘の政府が「日本の傀儡政府だった」など有得ない話なのです。

 

写真拡大ー上海の祝賀の大花火

上海では、還都慶祝の大花火が打ち上げらるほどの盛大な宣言式典でした。