新支那中央政府樹立の真相7-新支那中央政府の南京還都慶祝典1

新支那中央政府樹立の真相7-新支那中央政府の南京還都慶祝典1

1940年3月30日の汪兆銘氏の南京還都宣言に続き、1940年4月26日、新支那中央政府の樹立と南京還都を祝して、日中での盛大な慶祝典が開催されました。日本側からは、新支那中央政府の樹立に尽力した阿部大使が日本代表として訪問しています。

阿部大使は、中国を訪問するに当たり、まず愛知の伊勢神宮を参拝し、次に奈良の橿原神宮を参拝しています。京都にある主要な神社も巡った事でしょう。言うまでも無く、伊勢神宮は、日本の中心である天照大神(平和の女神)をお祀りする神社です。この参拝は、中国の新しい統一政府が樹立出来たことへの感謝と今後の中国の平和と繁栄を願ってだったでしょう。

日本には、神社を参拝し、願いや夢が叶うよう神様から直接ご利益を受け、その力を自分の家へ持って帰るという習慣があります。この時、阿部大使は、伊勢神宮など非常に位の高い神社(力の強い神の社)へ立ち寄り、出来る限りのご利益を頂き、それを、そのまま南京へ持って行きたいと思ったのではないでしょうか。

昭和15年6月(1940年6月)発行 「歴史写真」 から
昭和15年4月(1940年4月) 新支那中央政府の南京還都慶祝典(1)

記事:

汪精衛(汪兆銘)氏等の新支那國民政府樹立せられ、南京還都の式典舉行せらるるに就き、帝國政府前首相阿部信行大将を特命全権大使に任じ、慶祝施設として派遣することとなり、阿部大使は國民代表慶祝使節等と共に、四月十五日東京を出發、伊勢大廟、橿原神宮其他を参拝し、同月十八日神戸解纜の“鹿島丸”にて一路南京に向い、二十三日同地に安着、汪精衛(汪兆銘)氏以下の要人と會見、二十六日晴の式典に列して、意義深き祝詞を陳べた。

写真:

寫眞の(右上)阿部大使の伊勢神宮参拝。
(右下)神戸出帆當日埠頭を埋めた歡送の大。
(左上)“鹿島丸”船内阿部大使接見室。
(下中)阿部大使の橿原神宮参拝。
(下左)二十一日阿部大使が“鹿島丸”にて、上海に到着、呉淞沖に碇泊中、出迎えに來たる汪精衛(汪兆銘)氏の代理周佛海氏と會見しつつあるところである。

 

上記、阿部大使は、神戸港から、新政府の首都南京へ平和の使者として、軍艦ではなく、郵便船に乗って出向きましまた。郵便船は、平和を願いを送るための日本からの敬意であったといえるでしょう。中国を経済的な理由で侵略支配するため中国人を利用して傀儡政府を作った。南京へは形式的な訪問。そういう汚い発想であれば、阿部大使が、南京へ祝賀に向うに当たり、日本の最高神である伊勢神宮へ行く必要はありません。郵便船を使う理由もありません。

写真拡大ー阿部大使と周佛海氏の船上會見

私は、阿部大使の写真の本当に嬉しそうな顔から、友である中国がやっとここまで辿り着いた事を本当に心から喜んでいたと思います。

当時の中国では、蒋介石がようやく中国から排斥され、中国が独裁と植民地化の危機から脱したところでした。戦後、蒋介石の策略により、「日本が中国を侵略した」という話が正しい歴史の如く広まり定着しましたが、これは間違いです。日本は、表の役として、蒋介石政府の「盾」となっただけです。全ては、当時の中国人が、自ら、蒋介石政府の打倒と植民地化の危機からの脱却を掛けて、戦い続けて来た結果でした。

中国にとっても、日本にとっても、蒋介石という人間は本当に大きな脅威でした。阿部大使は、日本の神々に、これで中国と日本に平和が訪れることをひたすら願ったのではないでしょうか。

 

写真拡大ー 阿部大使の伊勢神宮参拝 

 

写真拡大ー阿部大使の橿原神宮参拝

 

伊勢神宮に加え、阿部大使は、橿原神宮を参拝しています。橿原神宮は「日本建国の聖地」と言われている場所にある神社です。この神社は、2600年続く日本の歴史と文化の発祥の地であり、日本の原点ともいえる場所です。南京へ出発する前に、この神社に立ち寄ったという事です。

阿部大使は、新生中国とその政府の平和と末永い未来を祈りたかったと私は思います。この写真は、当時の日本が、中国という国と中国人という人々を心から友だと思って尽力していた証拠だと思います。阿部大使は、当時、首相を務められた方です。日本の代表として、天皇陛下から全権委任もされていました。当時の日本人で、最もアジアの平和を切望されていたであろう、昭和の天皇陛下の名代で、南京に行ったという事です。阿部大使は、このために、首相を辞任したと言われいます。こうした記事もまた、南京大虐殺など、絶対日本人には有り得ないという証拠でしょう。

 

昭和15年6月(1940年6月)発行 「歴史写真」 から
昭和15年4月(1940年4月) 新支那中央政府の南京還都慶祝典(2)

記事&写真:

(右上)特命全権大使阿部信行大将の一行を乗せた郵船”鹿島丸”は上海より長江を遡り、4月23日午前9時半、堂々一万噸(トン)の巨軀(きょく)を南京下関碼頭に横付けし、日支官民の盛なる歡迎裡に阿部大使以下、長途の旅の疲れも見せず上陸した。

(左上)阿部大使一行を迎える南京市中の歡迎アーチ。
(右下)4月24日汪精衛氏(汪兆銘氏)が阿部大使を官邸に訪問しつつある有様である。左より褚外交部長、阿部大使、汪精衛氏(汪兆銘氏)、周外交部次長、松平貴族院議長。
(左下)同日西尾総司令官、及川司令長官合同の阿部大使招宴に大使が挨拶しつつある光景である。

注)噸(トン):重さの単位  /  巨軀(きょく):巨体 / 碼頭(マート―):船着き場

 

スケジュールとしては

4月15日:東京を出発
4月18日:神戸を出帆
4月23日:南京に到着
4月26日:南京還都の式典

写真拡大ー日本特使招宴での阿部大使挨拶

旧北京政府にすれば、1928年「北伐」での敗北から早12年、日本が本格支援を開始した1931年「満州事変」からは既に9年の歳月が流れていました。蒋介石との戦いは、方法論を間違えれば、中国本土でイギリスとソビエト(ロシア)の激戦さえ想定される「厳しい戦い」でした。中国本土での南北内乱は絶対に回避する必要がありました。中国の植民地化は日本にとっても死活問題でした。

上記の写真は、度重なる蒋介石の横暴非道に対し、中国人と日本人が手を取り合い、長く厳しい戦いを経て、新政府を樹立し、その祝賀式典が開催できるに至ったのです。全員が感無量だったでしょう。ようやく「平和への目途」が立ったと思えた瞬間だったのではないでしょうか?

 

昭和15年6月(1940年6月)発行 「歴史写真」 から
昭和15年4月(1940年4月) 新支那中央政府の南京還都慶祝典(3)

記事:

東亜六億の民衆の上に限りなき喜びを齎らす(もたらす)南京還都慶祝の歴史的典禮(典礼)は4月26日國民政府行政大禮堂(大礼堂)において擧行(挙行)せられた。写真は当日阿部大使の祝辞朗読。

写真:

(右下)4月24日午後、主席代理汪精衛氏(汪兆銘氏)が、阿部大使をその官邸に訪問したる際、南苑芝生に於ける記念撮影。
(左)4月24日朝、阿部大使が南京下關(下関)碇泊中の軍艦「〇〇」に、及川司令長官を訪問したる有様。

注)典禮(てんれい):典礼 / 南苑(なんえん):官邸などの賓客用庭園施設

 

写真拡大ー阿部大使と及川司令長官

上記、この写真に写る、阿部大使と及川司令長官の笑顔を見れば、日本は中国を侵略などしていないし、中国が新国家として門出を迎えられたことを心から素直に喜んでいたことは、中国の方々だけでなく、世界中の方々にご理解頂けるのではないでしょうか?

やましい気持ちでは、こうした笑顔にはならないからです。

 

写真拡大ー阿部大使の祝辞

当時の中国が4億人、周辺国家を含め、6億人だったようです。この新政府の樹立には、蒋介石と長期に戦争状態にあった中国共産党も、水面下とはいえ、非常に大きく貢献しました。張学良の西安事件では、蒋介石政府と停戦し協調しましたが、実質的には、張学良が中国共産党に自分の味方に付く約束を取り付けたのと同じだったからです。日中戦争(反蒋介石戦争)が勃発した際に、中国共産党軍と日本軍が、不要な戦闘により、双方に犠牲者が出るのを回避するためです。国共合作と言われていますが、長年に渡り敵対関係だったのです。停戦したからといって、敵であった蒋介石側について戦争し、命を落とす理由などありません。張学良が、将来的な日中戦争(反蒋介石戦争)への不関与を条件に、停戦協定を結ばせたのでは無いでしょうか?これが、日中戦争(反蒋介石戦争)が成功した要因になったといえます。

ソビエト(ロシア)の南下をけん制するため、反共を掲げていましたが、政治体制としては社会には共産主義的な発想や政府による直接統制はある程度は必要であり、極端な民主主義や資本主義は結果的に深刻な経済格差など国内問題を生み出すといえます。個人と集団の利益のバランスをどう取り実現するかが、結局、社会として問われていくものです。当時、このまま新政府が継続し安定化していれば、やがては中国共産党を最大野党とする議会体制が実現したかも知れません。