張学良の西安事件が起きた頃は、蒋介石政府軍が共産党軍を徹底的に攻撃し、撲滅寸前まで追い詰めていました。現在も、中国では、日本が共産党と戦っていたと「大きな誤解」が生じており、日中戦争時代の映画やドラマでは、常に日本軍が共…
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西安事件では、張学良は、蒋介石政府(国民政府)に対して、釈放条件として幾つかの「要求」を行ったようです。「歴史写真」の記事では、最も大きな要件として、「容共政策の実施」と「対日即時宣戦」の2つが掲載されています。「対日即…
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西安事件(せいあんじけん)は、1936年(昭和11年)12月12日に、西安という都市で、張学良が、蔣介石を拉致監禁した事件です。張学良は、出身は満州民族でありながら、満州国の分離独立に反対し敵対する蒋介石側に付いた人物で…
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日中戦争(日本ー蒋介石戦争)では、日本軍に比べ、蒋介石軍は圧倒的な兵力差(最低でも10倍、場合によっては30倍以上)があったため、日本が太平洋戦争に敗戦した後、日中戦争についても「日本が大敗した」との認識になっています。…
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「歴史写真」の記事では、1937年11月の記事として「蒙古大帝国建設の喜びにひたる徳王と我が〇〇部隊長との交驩」とあり、以下の写真が掲載されています。交驩(こうかん)とは、余り交際が無い人々が、お互いに打ち解け、親しく交…
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昭和11年(1936年)11月から始まる、内蒙古西域の綏遠省で起きた「綏遠事件」では、蒋介石政府軍と内蒙古軍の間では、一進一退の攻防戦が続きました。内蒙古の徳王は、隣接する満州帝国から日本製の武器を購入し、内蒙古の大軍を…
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綏遠事件は、蒙古軍が大敗したのではなく、一進一退で膠着状態が続いていました。しかしながら、この「軍事衝突」でも、蒋介石軍側の20万の大軍も、結局は「旧北京政府軍」だった軍隊であり、実際にどの程度の人的被害が発生したかは不…
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当時「綏遠軍」を率いた人物は「傅作義」という人物でした。この人物は、「北伐」で蒋介石側に付いた閻錫山(えんしゃくざん)の配下だった人物です。しかし、「北伐」後は、「中原戦争(=反蒋介石戦争)」で、閻錫山は蒋介石に反発して…
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内蒙古の綏遠で「軍事衝突」=綏遠事件が起きた要因の一つとして、外蒙古の共産主義化についての記事もご紹介します。 昭和12年2月(1937年2月)発行「歴史写真」から 昭和11年12月(1936年12月)外蒙近信 記事: …
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綏遠地域は、内蒙古東部が満州国に参入する前は、横に長い内蒙古全域の「中央部」に位置しており、古来からの「要所」であった場所です。蒙古と言えば、チンギス・ハーンで有名ですが、元の滅亡後は、本来の母国領域へ戻り、その後も王制…
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