張学良西安事件1-事件概要
西安事件(せいあんじけん)は、1936年(昭和11年)12月12日に、西安という都市で、張学良が、蔣介石を拉致監禁した事件です。張学良は、出身は満州民族でありながら、満州国の分離独立に反対し敵対する蒋介石側に付いた人物でした。、蒋介石とは義兄弟や親友同士のような印象さえあります。蒋介石の第一の側近ともいえる張学良が、なぜ蒋介石を拉致監禁したのか?張学良の行動は極めて「不可解」とされて来ました。
なぜ、同志であったはずの張学良が、蒋介石を拉致監禁する必要があったのか?日中戦争での「最も大きな謎」となっているようです。しかしながら、この事件は、その後の「北支事変」と「第二次上海事変」からの本当の歴史、即ち、「中国全体が蒋介石政府から分離独立を果たした」経緯を考えれば、第三者勢力として存在していた共産党軍を、このタイミングで、張学良が味方として取り込んでおくことは非常に意味が大きかったといえます。
現在の歴史の一般認識では、張学良が本来は敵であった蒋介石に寝返った理由は、張学良の父親である張作霖を、日本軍が爆死暗殺したからという「お話」になっています。しかし、「張作霖爆殺事件の真相」で説明した通り、張作霖を暗殺したのは蒋介石です。動機は、「北伐」後の中国で、蒋介石が主導権を握り、独裁体制を構築するためです。
張作霖は北京政府(=北部東北部)の総統であり、非常に影響力が大きい人物でした。北京政府の中心人物を、北京の「無血開城」の同意締結の直後に暗殺すれば、北京政府側の大混乱は必須です。結果、「北伐」は蒋介石が圧倒的な勝利を収め、成す術なく北京政府は解体滅亡しました。その後の「易幟(えきし)」を経て、蒋介石政府が完全軍事制圧する形で、旧北京政府の統治領域を、内蒙古、ウイグル、チベットなど周辺国家を含め、すべて統治下に置きました。
張学良は、父親の張作霖の基盤を引き継いだ一方で、蒋介石とは戦争を起こさず、まるで父の政治基盤であった北京政府や満州民族を裏切ったような行動を取りました。父親を暗殺した蒋介石の配下になるなどは、本来であれば有得ないことです。しかし、当時の状況で、張学良が、反蒋介石の立場を貫き、「北伐」後も対立すれば、大規模な内戦が再発します。それでは、中国の植民地化を進めるイギリスや、その傀儡政府の蒋介石の思う壺です。
中国国内での大規模な内戦を回避し、強大な勢力を誇る蒋介石政府を倒すためには、自分が敵の内部へ入り込み、内部から崩壊させる「戦略」に出たのでは無いでしょうか? それが「人的被害」や「経済損失」を最も回避し、蒋介石を確実に倒す方法であったといえます。味方を裏切った様に見せて、蒋介石の側近になり、内部崩壊の段取りを進める戦略です。その観点で見れば、張学良の取った行動は非常納得の行くものであり、非常な「戦略家」の側面が見えて来ます。
昭和12年2月(1937年2月)発行「歴史写真」から
昭和11年12月(1936年11月)-支那張学良氏の兵變(兵変)
右ページ
左ページ
記事:
十二月六日、張學良氏等を帶同して、西安に於ける中國要人會議に列席せんが爲め同地に赴きたる蒋介石氏は、同月十二日、西安を距る二十里 の溫泉場華清池に滞在中、突如張學良軍の爲め襲撃されて捕へられ、即日西安に護送監禁せられたるが、張學良氏は是と同時に國民政府に對し 容共政策の實施、對日即時宜戦其他の項目より成る重大要求をし、一 方瀕りに軍備を整へ、中央軍を邀へ撃たんとする氣勢を示したので、南京政府は狼狽措くところを知らず、相踵いで使節を西安に送り、學良氏 との交協政策を試みつつ、是亦、盛んに大軍を集結して、萬一の事態に備へ、兩々相對して二週日に及んだが、張學良氏も遂に自らの非を悟り
十二月二十五日に至り、既に幾たびか死を傳へられたる蒋介石氏を釋放するに至つたので、 同氏は出迎の夫人同伴飛行機にて無事西安を出發一旦洛陽に入り翌 二十六日、数十萬群衆の歡呼聲裡に南京に歸着しさしもの大事件も茲に一段落を告げることとなつた。
写真:
寫眞前頁 の右上は十二月十四日 蒋介石氏顧問ドナルド氏が西安に於て張學良氏と會見の有樣。左上は西安の革命公園。右下は南京市街の戒厳令布告文。左下は、蒋介石氏夫妻と張學良氏夫妻。又後の頁の右上は西安城の鐘機。右下は西安市街。左上は、麾下の軍隊に訓敵する學良氏。左下は鄭州より西安方面に輸送せられん とする中央軍の軍需品
麾下:差し招く
当時の記事によると、12月6日に、張学良と蒋介石は共に西安での中国要人会議に出る目的で、先に「華清池」という西安から20里(約40キロ)の温泉地へ出向いていたことが判ります。そこで6日後の12月12日に、張学良軍が突如襲撃し、蒋介石を捕えて、西安に護送し、監禁を行いました。
この時に、張学良から、蒋介石政府(国民政府)に対して、蒋介石の釈放に当たって要求としては、大きく2つ、「容共政策」と「対日即時宣言」があったようです。なぜ、この2つであったのかですが、この背景には、蒋介石政府と中国共産党の間での長年に渡る「軍事対立」がありました。