内蒙古独立の真相9- 「日本軍による占領」という「戦略」
日中戦争(日本ー蒋介石戦争)では、日本軍に比べ、蒋介石軍は圧倒的な兵力差(最低でも10倍、場合によっては30倍以上)があったため、日本が太平洋戦争に敗戦した後、日中戦争についても「日本が大敗した」との認識になっています。しかし、これは大きな間違いです。
実際には、日中戦争では、日本は「圧勝に次ぐ圧勝」でした。これは、内蒙古での「軍事衝突」でも同様です。満洲地域、内蒙古東部地域、この内蒙古西域、その他中国全土で、日本は、蒋介石政府軍に対し、「圧勝に次ぐ圧勝」で、各地を「占領に次ぐ占領」し、一旦、ほぼ「全域を日本の占領下」に置き、日本が「新国家」として「独立」させる「戦略=シナリオ}が取られていました。日本は、絶対的に勝利し続けるシナリオであり、勝利できるように「本来は味方」が「敵軍」になっていたのです。
これは、当然、1)日本軍が余りにも少数であり、蒋介石政府の大軍との「戦争は自殺行為=全壊滅」が想定されるほどの「劣勢」であったこと、「北伐」や「中原大戦」のように、2)中国の北部と南部での直接的な軍事衝突となれば、結局は、中国人同士での戦争となり、双方に大量の戦死者が出ること、3)戦場となれば都市や農村が破壊され国家経済が深刻に弱体化すること、
上記から、旧北京政府側の中国人と日本人との間で、「戦わずして勝つ=孫氏兵法」を具現化したような「巧妙な戦略」が仕組まれたといえます。
蒙古大帝国建設の喜びに浸る徳王
以下の写真は、日本軍が各都市を占領した際のものですが、中国全土に分散派遣され、1カ所=1部隊では、ここに写る程度の人数しか居なかったといえます。これで、蒋介石軍には勝てない。勝てたのなら、当然、トリックがあったと言えるでしょう。
奮關城の門上での撮影
上記の写真ですが、圧倒的な兵力をもつ蒋介石政府の大軍と戦った割には、軍服が痛んでいる感じがありません。ここからも戦闘が非常に「形式的」であった可能性が高いです。「僅かに三ヶ月餘にして内蒙河北今や全く敵影を見ざるに至った」など、たった3か月で出来ることではありません。本来であれば、有得ないことです。
井陘城の門上での撮影
3度目の「中国人同士の内乱戦争」の回避
明治維新の際、天皇家と徳川家が、「大政奉還」により、国内を二分するような大乱を回避し、その結果、政変軍事クーデター(明治維新)となっても、経済的な打撃を受けず、新政府体制で国力を維持出来た事に習い、中国側要人も、3度目の「中国人同士の戦争」は何としても回避したかったことから、「日本の協力を得る戦略」が取られたといえます。
実際に、日本が、蒋介石政府軍(実態は、張学良軍=旧北京政府軍=満州の味方)と戦い、勝利し、各地を占領しています。そのため、独立後、蒋介石が領地奪回を図るには、日本軍と言う「外国」と戦う必要があります。国際的な立場もあります。国内での内乱鎮圧のように、政府が迂闊に軍事行動出来ません。
この戦略により、「外国である日本」が、実質、蒋介石政府の中華民国との間での「防衛壁」となり、独立後、蒋介石から「軍事進攻」の「名分=理由」を潰したのです。
そのため、満州事変の祭と同様に、蒋介石政府軍も共産軍も、「結果在りき=日本の勝利」を前提に、内蒙古の察哈爾(チャハル)への軍事侵攻し、同時進行中の「北支事変」も含めて、各地では、蒋介石に悟られないよう、ある程度の「軍事衝突」を行いつつ、結局は、日本に「無血開城」し、日本の占領下に入って行きました。
そのため、「歴史写真」の記載も、「我が〇〇部隊は、德王並に李守信大將の率ゐる内蒙古軍と協力」や「我軍と協力して」など、日本軍の軍事侵攻に、内蒙古の王が協力したようなニュアンスになっています。本来出あれば、「徳王の要請を受けて」、「徳王に協力して」となり、「軍事衝突」の責任は、内蒙古軍を率いた「徳王」になるべきです。しかし、日本が占領する必要があったため、徳王の蒙古軍が協力したかの話にする必要があったのでしょう。
そのため、本来は、独立したい徳王が自分の国家のために戦っていましたが、日本の閑院参謀總長から「お褒めの言葉」を伝える書簡が送られたのです。「日本のために、協力してくれて、どうも有難う」という、自国の領土を占領している「国家」からの「御礼」です。普通に考えれば、徳王からすれば「ふざけるな!」となりますが、日本はあくまで「防波堤」の役割です。
この書簡により、徳王は、むしろ、国家独立後、蒋介石からの直接攻撃を完全に回避する「口実」を得たのと同様です。蒋介石政府に対し、あくまでも、自分達は日本に占領されたのです。何か文句あるなら「日本に言って下さい!」というお墨付きになったと言えるでしょう。
尚、この綏遠事件(綏遠事変)では、蒋介石軍に共産党軍が参加しています。共産党軍が参加することになった理由は、張学良が動き、蒋介石政府と「停戦協定」が成立させたからです。これにより、現在の歴史では、共産党軍が、日本軍と「大規模な軍事衝突」をしていたかの様な「お話」になっていますが、張学良がやった事は、「北支事変」以降(日中戦争以降)、共産党軍と日本軍の「全面軍事衝突」を回避することが目的だったと言えるでしょう。これが、張学良の西安事件に繋がるのです。