内蒙古独立の真相7- 蒋介石軍の察恰爾(チャハル)不法侵入

内蒙古独立の真相7- 蒋介石軍の察恰爾(チャハル)不法侵入

昭和11年(1936年)11月から始まる、内蒙古西域の綏遠省で起きた「綏遠事件」では、蒋介石政府軍と内蒙古軍の間では、一進一退の攻防戦が続きました。内蒙古の徳王は、隣接する満州帝国から日本製の武器を購入し、内蒙古の大軍を率いて、蒋介石政府軍(山西軍)を率いていた傅作義と戦っていましたが、その約8カ月後の昭和12年(1937年)7月、「北支事変」が勃発します。

蒋介石軍の察恰爾(チャハル)不法侵入

「綏遠事件(綏遠事変)」以降、徳王率いる内蒙古軍の攻勢により、蒋介石政府軍(山西軍)は、綏遠方面からは撤退したようですが、「北支事変」及び「第二次上海事変」の勃発を契機に、再び、今度は「中国共産党軍」と共に、察恰爾(チャハル)方面に「不法侵入」したため、日本軍は、内蒙古の徳王と協力し、張家口から張北へ進軍し、懐来(かいらい)を占領しました。張家口は、北京方面から、太行山脈を越えた反対側にある都市です。

昭和12年11月(1937年11月)発行「歴史写真」から
昭和12年9月(1937年9月) 平綏線上疾風迅雷の我軍

記事:
去る七月下旬、察哈爾(チャハル)方面に不法侵入したる中央軍及び共産軍撃破のため、關東軍所属の我が〇〇部隊は、德王並に李守信大將の率ゐる内蒙古軍と協力、察哈爾 張北より敵を追ふて張家口に入り、更に所在の殘敵を掃蕩し、又、他の我が一軍は、懐来(かいらい)を占撮した。

写真:
寫眞の(右上)察哈爾(チャハル)方面に於て我軍の鹵獲したる敵の機關銃とダムダム弾。(中上) 懐来入城の我が〇〇部隊(右下)懐来市街の偵察。(左上)斷然、南京中央府より離脱して、九月三日張家口に成立したる察南自治政府の最高委員で、左は干品卿氏。右は杜運字氏。(左下)同じく自治政府である。

注)平綏線:北平(北京)と内蒙古の綏遠を結ぶルート。張家口はその重要地点。
中央軍:蒋介石政府軍(山西軍)

我々日本人が正しく認識すべきことは、「日本軍は非常に小規模」であり、本来であれば蒋介石軍に勝利など出来ませんでした。満州事変の際と同様、この時も、表向きは日本軍が戦い、日本軍が占領する形を取りましたが、実際に戦っていたのは、内蒙古軍でした。日本軍は「軍師」に近い動きだったでしょう。

 

昭和12年11月(1937年11月)発行「歴史写真」から
昭和12年9月(1937年9月) 敵城続々陥落の平綏線

記事&写真:

(右上)我軍と協力して、察哈爾(チャハル)侵入の中央軍及び共産軍を相手に、各地に轉戰し、 大に武勲を樹てたる蒙古軍 德王並に李守信大將に對し て、八月二十七日、長くも閑院参謀總長宮殿下より、 關東軍司令官を通じ、お褒めの御言葉を賜はつた(左 上) 本校線に沿ム各地に蟠 聴する敵を、破竹の勢ひを以て撃破したる殊動の我が〇〇部隊が宜化の城門上に日章旗を翻しつつあるとこ ろ。(右下) 綏遠省境平綏線上の要地、陽高の東門上に於ける我が歩哨。(左下)長 城線なる岔道城に入る我軍 の一隊である。

注)陽高:張家口の西方で、大同駅のある県。  /岔道 :北京から張家口へ抜けるルートの途中にある都市

当時は、蒋介石政府と共産党の間には「停戦協定」だけでなく、「軍事協力体制」に至っていたため、蒋介石政府下の軍隊であった「山西軍」は「共産党軍」と共に、察哈爾(チャハル)への軍事侵攻を行いました。「綏遠事件(綏遠事変)」以降、日本軍は内蒙古の各地へも少数部隊の派遣をしており、「北支事変」に合わせて、蒋介石政府からの完全分離独立に向けて「準備」をしていたと考えます。

 

昭和12年10月(1937年10月)発行「歴史写真」から
昭和12年8月(1937年8月) 察哈爾省〇〇蒙古軍司令部に於ける徳王

記事&写真:

(右上)内蒙方面に於て支那中央軍の進出に對抗し、皇軍の活躍を援けて絶大なる戰績を示したる蒙古軍の司令官徳王が、八月二十二日、〇〇の司令部に於て、我が〇〇部隊長と會見したる有様。
(左上)残暑尚ほ焼くが如くなる〇〇の本部に於て、親しく兵の報告を聴きつつある〇〇部隊長。
(右下)長城線に沼ふ〇〇の山上に銃を擁して立つ我が歩哨。
(左下)北支も平綏線に沿ふ方面は、朝蒙に既に著しく 秋冷を覚え、兵士等は宿舎の屋根に上がり朝日を浴びつつ暖を取っている。

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中央の民族衣装の人物が徳王です。向かって左が徳王の側近的存在であった李守信という人物です。

内蒙古は「北支事変」と同時並行して、日本がその全域を占領下に置き蒋介石政府からの分離独立と国家建国を果たしています

 

「蒙古大帝国」については、満州国の建国のような祝賀パレードのような情報は「歴史写真」にはありません。しかし、「蒙古大帝国」又は「蒙古王国」が成立したという情報はあります。後に中国で成立する「新支那中央政府」には、満州帝国が「国家」参入する形、要は、単なる自治政府ではない立場、「連合国」として参入しました。現在の歴史では、「新支那中央政府」は日本の傀儡政府という話になっていますが、アメリカ合衆国に近い体制での5民族の連合「中央政府」であったと言えます。日本の傀儡政府だったなど、有得ない誤解です。