内蒙古独立の真相6- 日支事件と綏遠事件

内蒙古独立の真相6- 日支事件と綏遠事件

綏遠事件は、蒙古軍が大敗したのではなく、一進一退で膠着状態が続いていました。しかしながら、この「軍事衝突」でも、蒋介石軍側の20万の大軍も、結局は「旧北京政府軍」だった軍隊であり、実際にどの程度の人的被害が発生したかは不明ですが、「中原大戦」の際に、既に、蒋介石を見切って、反蒋介石戦争を起こした側の軍隊です。蒋介石としては、戦後、蒙古軍に圧勝したことにしたかったでしょうが、実際には、蒙古軍が圧勝、蒋介石軍は大敗であったといえるでしょう。

昭和11年3月に満州が帝政へ移行し、清帝国が実質的に復活すると、それを脅威を感じた蒋介石は中国の在留邦人への攻撃を激化させていきます。以下は、満州帝国の成立から3か月後に起きた「日支事件」と呼ばれる、蒋介石政府と日本との間での「民間レベルの衝突」に関する記事です。「綏遠事件」は、その翌月10月からですが、「日支事件」についても、日本は相当に酷い仕打ちをされていた一方、邦人保護の目的から、結局、中国の各地へ日本軍が分散する「理由」が出来てしまったといえます。直後に起きた「綏遠事件」が、「日支事件」での「日支交渉」による「和解」を阻止するこという目的があった可能性もあるため、ここで紹介したいと思います。

北支那方面は、水面下では「味方」である張学良がいましたので、蒋介石の反日抗日姿勢と、日本邦人への攻撃は防げたのではと思いますが、この時期は、不祥事件があちこちで頻発しました。張学良としても、蒋介石の手前もあり、また、反日抗日の勢力が広範囲に強化に従わざるを得ず、防ぎ切れなかったのかも知れません。一方で、不祥事件の頻発を敢えて許していたという見方も出来ます。これは、結果的に、日本軍が中国へ派遣される結果になったことに変わりは無いからです。日本が協力したのか、利用されたのか、本当のところが不明です。ですが、ある意味、北と南の両政府の間に入って、翻弄されていたのは事実でしょう。

昭和11年11月(1936年11月)発行「歴史写真」から
昭和11年9月(1936年9月)日支事件(1)

写真:

(右上)九月十八日北支豊台於て支那兵が我が兵に對し暴行を加へたる事件に關し、第三十七師副長許長林が、我が牟田口〇隊長に對し謝罪しつつある有様。
(左下)右豊台事件、現地解決折衝中の日支両軍幹部である。
(左上)九月三日北海に於て邦人商人殺害されたる事件に就き、九月二十三日、我が調査員の一行が、北海に上陸、現地に向かわんとしつつある有様。
(右下)北海に於て抗日某民のため惨殺せられたる中野順三氏の遺族で、左より長男清君、第一夫人葉卿さん、長女千鶴子さん、第二婦人の陳潘さん、次女の梅子さん其他である。


昭和11年9月(1936年9月)日支事件(2)

記事:
成都、北海、豊台、漢口等に於いて続出したる不祥事件に続き、更に九月二十三日の夜には上海に於いて我陸戦隊員、田湊二等水兵が何者かの手に依て射殺せられ、二名は負傷した。茲に於て我方は愈々堪忍袋の緒を切り、陸戦隊本部は戦時非常配備に就き、事態は當に一触即発の危機に瀕した。

写真:
写真(右上)上海〇〇付近に於て我が軍用犬の活躍振り。(左下)邦人街呉淞路付近に出動して小学生の登校を保護しつつある装甲自動車隊。(右下)軍艦「出雲」の田湊水兵の葬儀に三れるする喜多少々。(左上)その霊柩車。

昭和11年9月(1936年9月)日支事件(3)

記事:
(右上)九月二十三日、上海に於て我が陸戦隊員の殺傷事件勃発するや、陸戦隊本部は即刻戦時非常配備に就いた。寫眞は萬一に備えて、日本人倶楽部前に出動したる装甲車隊。
(左上)九月二十九日の夜、水兵射殺の現場に於て、我が陸戦隊、領事館、警察並びに支那側工部局立合の下に実地検証を行いつつあるところ。
(右下)上海、大阪商船埠頭付近、前方に見ゆるは我が特務艦「知床」。
(左下)九月二十八日、闡北方面警備中の我が陸戦隊〇〇部隊。

昭和11年9月(1936年9月)日支事件(4)

記事:
(右上)我が水兵射殺事件勃発するや陸戦隊本部は極度に緊張し、直ちに戦時非常警備に吐き、事態は急迫、聞き寸前に迫るの感あるや、同月二月十八九日頃より、上海市民の避難するもの続出し、街上は非常な混雑を呈した。
(左上)十月二日中山兵曹射殺事件公判の開かれた江蘇特區法院前における各国巡査の厳戒振り
(右下)兒童の学校往復を警戒する機関銃車隊。
(左下)中山兵曹射殺の下手人葉海生が、死刑を宣告されて法院を出て来るところである。

児童の学校への登校に、機関銃を持った兵士が護衛に当たるというのは、尋常では無い状況です。この翌年が、北支事変、第二次上海事変を経て、日中戦争(日本ー蒋介石戦争)へ突入しますが、前年に起きても不思議はない状況でした。こうした歴史を振り返り、日本は二度と同じ事を繰返してはいけないと、つくづく思います。

こうした事態の収拾の為、日本と蒋介石政府の間では「日支交渉」が続けられていました。

昭和11年12月(1936年12月)発行「歴史写真」から
昭和11年10月(1936年10月)最近の支那

記事:
寫眞はいづれも最近の支那通信で、前頁の右は、此程南京に於て開催せられたる盛大なる双十節当日、珍しく大礼服に身を固めたる蒋介石氏。
左上は、十月八日南京中山門外孔祥煕氏邸に於ける我が川越大使と蒋介石氏との歴史的会見後の記念写真で、向て右より高宗武氏、川越大使、蒋介石氏、後方は清水通訳官である。
右下は蒋介石氏の五十回誕生祝ひとして上海の支那人より献納したる十基の飛行機である。近来支那に於ては官民共に航空機熱以上に昂まり、多数の飛行機及び操縦士を欧米各国より齋一意専念防空設備の充実を図って居るのである。
左下は去九月二十三日上海に於て我が水兵を殺傷したる事件雄容疑者張栄和。

この際の日支交渉は、蒋介石が日本との関係融和の方向で望み、記念写真の表情からすれば、ある程度「成果」のあった会談ではあったといえます。しかしながら、日本との「和睦」の真意としては、チベットへの軍事侵攻、中国共産党の撲滅戦争など、日本と満州との「軍事衝突」は回避したかった「裏の事情」からです。蒋介石は、あくまでも反日、抗日の姿勢は崩さず、中国の一般市民を扇動しては、現地居留邦人への攻撃を続けていました。この会談での「関係融和」の合意は、結局、その直後の「綏遠事件」での蒋介石軍と内蒙古軍の軍事衝突により、結論は先延ばしになったようです。

この2つの事件で言えることは、結論として、日本軍が中国国内の要所へ派遣される事態を生み出したということでしょう。