内蒙古独立の真相5- 傅作義が率いた綏遠軍

内蒙古独立の真相5- 傅作義が率いた綏遠軍

当時「綏遠軍」を率いた人物は「傅作義」という人物でした。この人物は、「北伐」で蒋介石側に付いた閻錫山(えんしゃくざん)の配下だった人物です。しかし、「北伐」後は、「中原戦争(=反蒋介石戦争)」で、閻錫山は蒋介石に反発して戦争を起こしています。これは、北部の巻き返しともいえる戦争でした。「中原戦争」は、結局、張学良が停戦調停し終焉しましたし、「和解」した後は、張学良の配下で、蒋介石政府軍を構成していた人物です。国内が長期に内乱状態である場合、政治家が、情勢に応じて、敵と同盟したり、味方と離反したりは、いつでも起り得ます。しかし、一旦、大きな戦争に至るほど「対立」した相手と、同盟し味方になったからと言って、手放しで「信頼関係」が築けるかは、人の心理としては容易では無いでしょう。

綏遠軍を率いた人物である「傅作義」は、蔣介石政府内では、「張学良」が率いる「北軍派=元北京政府」に属する人物です。閻錫山もですが、山西省の軍閥を率い、かつては北京政府の要人であり、「北伐」後に「反蒋介石戦争」まで起こした人物です。仮に蒋介石側に付いたからといって、蒋介石を支持していたかについては疑問です。

昭和12年5月(1937年5月)発行「歴史写真」から
昭和12年4月(1937年4月)支那近信

上記は、昭和12年4月(1937年4月)上旬、綏遠事変の戦没者追悼会が、大青山上の公園で行われた際の一枚です。左は、「汪精衛(汪兆銘)」、その隣のマント姿の人物が参政省主席「閻錫山」、その右隣の軍服姿の人物が「綏遠軍」を率いた人物は「傅作義」です。「閻錫山」と配下の「傅作義」の関係が良く解る一枚といえます。

張学良と綏遠事件

上記の写真には張学良は写っていません。しかし、張学良は、その行動や起きている事態から、「蒋介石政府の内部分裂を画策する」目的で、自ら「裏切り者」となって蒋介石政府内部や軍隊に深く入り込んだとしか考えられませんが、そう考えれば、張学良の不可解な一連の行動に「動機」が見えて来ます。この閻錫山についても、その張学良の「停戦」の呼び掛けに応じて中原大戦を断念したのです。張学良の配下となり、「蒋介石政府の内部分裂を画策する」ための「要員」となったとしても不思議はありません。

「歴史写真」には「赤化(共産化)した外蒙古の魔手に躍らされつつある綏遠軍」とあります。実際に何が起きたのか詳細はありませんが、満州国の独立後、北支では自治運動=分離独立化の動きがあり、実際に自治政府が成立しています。当然、内蒙古西部でも、蒋介石政府からの分離独立の動きは起きていたといえます。そのため、傅作義が率いる綏遠軍(蒋介石軍)が、内蒙古軍と戦い、ここで内蒙古軍が勝利すれば、内蒙古の分離独立が達成出来るというシナリオが見えてきます。

綏遠事件も、真相は、満州事変の時と同様でしょう。満州事変は、張学良率いる東北軍(=元北京政府軍=満州軍=表向きは蒋介石軍)と外国である日本軍が戦う形を取りました。激しい戦闘が繰り広げられたことにして、実際には、日本軍が到達した各都市では「無血開城」し、日本に占領させていました。あの少人数の日本軍が、真面に戦って勝てるはずはありません。事前に「口裏」を合わせた上でなければ無理です。その上で、日本に一旦占領した地域を分離独立させて、満州民族と内蒙古民族との「国家」を作るというシナリオでした。この綏遠での軍事衝突(綏遠事件)も、張学良の配下の「閻錫山」の配下である「傅作義」が動いています。その後の内蒙古西域の独立分離に向けた「事前工作」だったといえるでしょう。ここでも、表には出てこないものの、張学良が「影の軍師」として存在している構図が浮かびます。

日本軍が事前に各地に分散する口実

蒋介石軍と内蒙古軍での軍事紛争が起きれば、内蒙古西域とも、「天然資源ビジネス」を通じて友好関係にあった日本が、輸送鉄道などを守る必要性から、日本軍が内蒙古西域へ進出する「口実」が出来ます。日本は、内蒙古の徳王と国際経済協力関係を築いていましたので、徳王を支援するのは当然です。

一方、表向きは蒋介石政府軍であっても、実質的に、綏遠軍は張学良の配下=満州国側=日本の味方ですので、各都市で一応の「軍事衝突」を繰返し、ほぼ「無血開城」し、日本に占領させていたといえます。内蒙古西域での綏遠事件は、この観点で見ると、将来的な完全分離の「軍事クーデター」に向けた「事前準備」=「日本軍の分散配置」だったと言えるでしょう。内蒙古へは、軍隊の移動に時間が掛かるので、予め、ある程度移動しておく必要があり、その「理由」作りです。

この時は、内蒙古軍と日本軍が同盟する形を取り、内蒙古を軍事占領していた蒋介石政府軍を一掃しました。それにより内蒙古西域も独立しました。現在の歴史では、内蒙古が独立したことは殆ど知られていないようです。もちろん、この蒋介石政府軍の大半は、元北京政府下の軍隊ですので、結論としては、旧北京政府側が、内蒙古の王と、かつての領土を「奪回」したという事になるでしょう。

百靈廟に於ける最近の徳王

上記の写真は、百靈廟に進軍後、蒋介石政府軍(綏遠軍)との軍事衝突の最中に取られた「内蒙古王の徳王」です。現在の一般認識では、綏遠事件で、徳王は激戦の末に大敗ということになっているようです。しかし、この穏やかな表情から、蒋介石軍との戦いは、概ね、徳王が優勢であったといえるでしょう。

綏遠事件は、徳王が大敗したのではなく、「百霊廟」を巡って、「一進一退の形勢」が持続していたのが真相です。要は「両者睨み合い」です。徳王が駆け付け、「百霊廟」を奪回し、綏遠軍が不利になりましたが、その後、綏遠軍は、蒋介石政府軍の「中央軍」20万の援軍を得て態勢を持ち直します。その結果、「両者睨み合い」となりました。これが、1936年11月時点です。翌年の分離独立に向け、輸送鉄道網の守備や、在留邦人の保護を理由に、日本軍が内蒙古西域に散らばるには「良い口実」だったといえます。