内蒙古独立の真相4- 外蒙古の共産主義化

内蒙古独立の真相4- 外蒙古の共産主義化

内蒙古の綏遠で「軍事衝突」=綏遠事件が起きた要因の一つとして、外蒙古の共産主義化についての記事もご紹介します。

昭和12年2月(1937年2月)発行「歴史写真」から
昭和11年12月(1936年12月)外蒙近信

記事:

今や完全に赤化された外蒙共和國の一面を窺う(うかがう)に足る写真である。

写真:

即ち右上は共和國大統領ドキソム氏が、そのスポーツ祭に於ける軍隊の更新を檢閲答禮しつつある有様。
左上は最近著しく近代化された外蒙古人の生活振の一端を示したもの。
右下はロシア製の機關銃を持ち出して操作訓練中の赤衛軍。又、
左下はその在郷軍人の一團で、胸間に勲章の如きものを飾り意氣昂然たるものがある。

因に共産ロシアの魔手に躍る外蒙古の勢力が次第に強化されてゆくことは、満州國や内蒙、北支にとっての一大脅威で、東亜の禍根は實に此處に洗剤しているのである。

外蒙古:共和国大統領ドキソム氏ー写真の拡大

外蒙古は、清帝国の滅亡後は、ロシア(ソビエト)の影響から、北側は共産主義化が進みました。1924年11月には「モンゴル人民共和国」として社会主義国家が建国されており、ロシア(ソビエト)側に付いていました。清帝国の統治下では、蒙古(モンゴル)は南北には別れていなかったようですが、共和国化の際に、古来からの王族は内蒙古へ逃れたのかも知れません。内蒙古は、共産化した外蒙古と分離し、北部政府(清帝国)側に付いていました。

 

外蒙古軍の軍人ー拡大

 

昭和12年4月(1937年4月)発行「歴史写真」から
昭和12年2月(1937年2月)赤化した外蒙古

記事:

世界赤化の恐るべき大野望を抱懐するソヴエツト・ロシアは、先ずその魔の手を外蒙古に伸ばし、今や殆ど完全にその地方一帯を、赤化しさったのである。

写真:

寫眞は最近外蒙古より齎されたるもの、以てとの一端を伺い知る事が出来るであろう。
即ち右上は、首都ウランバートルの中央電話局に働く蒙古人の男女。左上はウランバートルの郊外を、スポーツ服に身を固め颯爽行進するモダン・ガールの群れ。
右下はソ聯(ソビエト)教官の訓練に依る外蒙古赤衛軍の騎馬隊
又左下は是もロシア式なる外蒙赤衛隊のパイロットと其の落下傘部隊

 

外蒙赤衛隊ー写真拡大

蒙古(モンゴル)は、元の時代に、一時はヨーロッパまでを征服し大国家となった国の民族です。特に騎馬隊は精鋭ぞろいだったでしょう。上記の写真のように、ソビエトの支援を受け、軍隊の近代化も進んでいました。ソビエト(ロシア)としては、イギリスやフランス等、ヨーロッパやバルカン地方で敵対関係にある国々が、着々と中国に進出する中、外蒙古を確保出来れば、それで本土への「防御壁」が確保出来ます。清帝国の滅亡後は、外蒙古の共産化は積極的に行ったはずです。蒋介石の「北伐」の前に、共産主義国家として独立させました。

内蒙古からすれば、北部の外蒙古は既に分離独立しており、内蒙古の東部も満州国として分離独立が達成され、中国の北部地域(北支)についても「自治政府」が成立していました。この状況からも、綏遠事件(綏遠事変)については、内蒙古西域の分離独立を目的とした「軍事クーデター」であったとするのが正しい歴史と考えます。

 

以下は、モンゴルと中国との地理的な構図で、Googleマップの地形図に、大まかですが中国の山脈の位置を描いたものです。西安から左に抜ける黄色い線は、ウイグル地域のゴビ砂漠地帯の南側を抜けるシルクロードです。

中国の二大山脈の位置 (Google Mapより)

太行山脈:中国の華北平野から山西高原に渡り、北東から南西へ400km、平均標高1,500mから2,000mの大きな山脈。山西省、河南省、河北省の三つの省の境界部分に位置する。黄河が北から南へ大きく曲がって流れているのはこの山脈の影響。黄河側に呂梁山脈が重なり、かなり険しい山脈である。段差1,000m以上の断崖を形成しているところもある。中国にとっては「自然の城壁」といえる。

 

横断山脈 :中国の西部に南北に延びる山脈。四川省西部、雲南省西部、チベット自治区東部の交わるあたりを南北方向に走っている山脈の総称。複数の山脈で構成され、山脈の間を多数の河川がながれる。チベット側との自然の城壁となっている。

内蒙古地域と中国華北平野地域との間には、太行山脈という標高1500m級の高い山脈が北京の西北部から南西方向へ400Km程伸びています。中国での北側の大河である黄河が地図上で北から南に大きく折れ曲がりっているのを想像頂ければ、これが内蒙古と中国中原地域との自然の境界線であることが分かります。このため、内蒙古地域から南京方面へ天然資源の輸送を行う場合、北京の北西部の低地からのルートを使っていました。

ソビエトと日本

日本はソビエト(ロシア)からも天然資源を輸入していましたし、当時の日本は、反蒋介石=反イギリスという点で「利害一致」がありました。戦後、「日本が全ての戦争責任を負う」前提で、東京裁判は結論が初めから決まっていました。ソビエト(ロシア)は、イギリスやアメリカとは「敵対関係」でしたので、水面下であっても日本とは味方同士でした。しかし、日本の敗戦により、そのままでは、ソビエト(ロシア)も敗戦国に組み入れられてしまいます。

終戦の少し前に、ソビエト(ロシア)が連合国軍(イギリス、フランス、アメリカ)側に付き、日本に対して「宣戦布告」したため、日本とロシアは当初から「敵対関係」のような印象と認識になっていますが、当時は、政府の方針として「主義」は異なっていても、日本はロシアの間には「国際経済協力体制」あり、水面下では、蒋介石を潰す為に「同盟関係」に近い状況だったといえます。

蒋介石政府は、背後に中国の植民地化を目論むヨーロッパ諸国やアメリカ勢力の傀儡政府同然、日本(異民族)に対する残虐かつ差別的態度、政府として極めて好戦的な姿勢など、中央政府として致命的な問題があるだけではなく、鉄道網など経済協力関係面でも相容れない致命的な問題がありました。更に、漢民族と蒙古民族という異民族対立問題もありました。西部の内蒙古民族にとって、これだけの悪条件を押してまで、蒋介石政府の統治下に入るメリットは全くありません。東側には、既に物資運送のための鉄道網もあり、日本という天然資源の大量消費国家が存在し、満州国が分離独立をしている状況でした。こうした状況を考えれば、残された東部の内蒙古地域としては、何かにつけて戦争を起こす蒋介石政府下にいるよりも、当然、満州国側に自治政府として合流することを選択したでしょう。また、それを予定しての満州帝国だったといえます。

ソビエト(ロシア)も、表向きは「敵対関係」でしたが、水面下では「同盟関係」に近い状況で、満州国の建国はソビエト(ロシア)にとっても、極東での対イギリス政策としては、非常に歓迎する立場であったことは言うまでもありません。満州国が極東アジア地域の「防御壁」になるからです。