中国の内蒙古地域は外蒙古(現在のモンゴル)の南側に位置し、東西に横長に広がっています。当時、内蒙古の東部の蒙古族は、満州国建国の際に満州民族と共に蒋介石政府からは分離独立を果たしました。これを受け、内蒙古の西側地域も蒋介石の「統一中国」から分離独立を目指していきます。
1935年12月には、満州国と蒋介石の「統一中国」の間に非武装緩衝地帯が設けられました。これは内蒙古地域からすると防衛上非常に大きな意味を持ちます。内蒙古地域と中国との間には、太行山脈という標高1500m級の非常に険しい山脈が北京の西北部から南西方向へ400Km程伸びています。中国の平野地域から攻め込むには、北京の北西側の谷あいを抜けるしかルートがありません。これが中国の歴史で北京が首都や要所となって来た理由です。その周辺が緩衝地帯となったのです。内蒙古の西域地区からすれば、中国に対して軍事的防壁を確保したと同様です。当然、この機を逃すわけはありません。
このような状況であれば、今度は、統一中国側の蒋介石の方も、内蒙古の西域地区の分離独立を阻止する動きに出るのは当然です。綏遠事件とよばれる内蒙古軍と蒋介石軍との軍事衝突は翌年1936年11月ですが、この事件の背景には満州国の分離独立と北支(華北)の自治権(非武装緩衝地帯)獲得が大きく影響しています。
内蒙古独立の真相 一覧
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