カテゴリー: 18日本軍圧勝の真相

The Truth of Japan-China War

日本軍の圧勝の真相15-臨汾・垣曲の占領

山西省方面は、前年、昭和12年(1937年)10月、北京方面から、太行山脈に沿って、山西方面へ南下した部隊が、太原方面から更に南下し、昭和13年(1938年)2月には臨汾に迫っていました。中国の北支那の西側には、太行山脈…
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日本軍の圧勝の真相14-徐州陥落

徐州は、5月19日の午前9時に陥落しました。徐州の総攻撃は5月17日から開始されたので、戦闘は2日程だったようです。Wikipediaによると、徐州会戦は、日中戦争中の1938年(昭和13年)4月7日から6月7日までとあ…
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日本軍の圧勝の真相13-徐州大会戦

徐州会戦は、蒋介石政府の首都だった南京攻略の後、日本軍と蒋介石軍と勝敗を決定的にする大きな戦闘でした。蒋介石政府軍は50万の兵力を配備していました。徐州では、昭和13年(1937年)5月13日に、日本軍の空軍が蒋介石政府…
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日本軍の圧勝の真相12-徐州攻略の前戦

徐州の攻略では、北京方面から南下した部隊と、南京方面から北上した部隊とが合流しました。徐州は、中支那、即ち、中国の黄河(北)と揚子江(南)に挟まれた地域の真ん中辺りにあります。1937年12月に南京陥落後、日本軍は、揚子…
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日本軍の圧勝の真相11-徐州への進軍

日本軍は、済南を占拠した後、更に、南下して徐州へ進軍を続けました。 昭和13年4月(1938年4月)発行 「歴史写真」 から 昭和13年2月(1938年2月)前線より非難する農民と姉人宣撫班の活躍 記事: 清浦線南下の皇…
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日本軍の圧勝の真相10-済寧城と曲阜城の陥落

昭和13年(1938年)1月は、済南の占領後、南にある済寧に進軍しました。日本軍は、8月8日の北京無血開城を果たし、9月から鉄道網に沿い、3方向に分かれて進軍しました。南側は、西が石家庄⇒太原方面、東が済南⇒徐州方面です…
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日本軍の圧勝の真相9ー北支ー青島の占領

南京陥落の翌月、昭和13年(1938年)1月、北部方面では青島(チンタオ)を奪回しました。青島は、以下の地図(Wikipedia 青島より)を見れば、中国から日本への船上貿易の重要拠点であったことはご理解頂けるでしょう。…
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日本軍の圧勝の真相8-済南の陥落

昭和12年(1937年)12月14日は、北京で「中華民国」の新しい政府(国民政府)が誕生します。前日の13日は、日本軍が、南京の陥落と占領を完了しました。これは、北部政府が、ようやく、南部政府の蒋介石から「中華民国」の奪…
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日本軍の圧勝の真相7-太原の陥落

昭和12年(1937年)9月に、北京から、保定、石家庄へ進軍し、そこから、西方の太原を目指して進軍を続けました。昭和12年(1937年)11月には、蒋介石政府軍の主要軍閥の一つを率いていた閣錫山の本拠地である太原を陥落し…
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日本軍の圧勝の真相6-正定の陥落

昭和13年12月(1938年12月)発行 「歴史写真」 から 昭和13年10月(1938年10月) 一 太原目指して獅子奮迅の我部隊(其他) 記事: (右上)支那にその人あ りと知られたる閻錫山の本據として、人口四十萬、…
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