南部の蒋介石政府は、北部の様な天然資源には恵まれておらず、南部の主な産業としては、肥沃なデルタ地帯を生かした農産業や、対外貿易など商業が中心でした。北部と軍事衝突するには、産業基盤として「資金源が不十分」です。そのため、…
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内蒙古は、中国の北側に東西に横長に広がった領域の「国」です。清帝国時代は、清帝国の領土でした。満州国の建国の際は、この内蒙古の領土の内、満州地域と接する「東部の蒙古族」は、満州国建国の際に満州民族と共に蒋介石政府からは分…
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満州国が帝政に変わった翌年、北支では「北支事件」を経て、蒋介石政府からの分離独立の機運が高まって行きました。当時の日本は、独立機運の高かった内蒙古の西部地域とも、天然資源の輸出入ビジネスを展開しており、そうした貨物は、北…
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昭和7年(1932年)3月1日に満州国は建国し、2年後の昭和9年(1934年)3月1日には、清帝国の皇帝であった愛新覚羅溥儀が満州国の皇帝となり、帝政が復活します。当然、満州帝国とは、清帝国の母国領土での再興であったとい…
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満州国の独立建国後は、隣接する華北地域でも独立の動きが表面化するようになって行きました。当時の中国国の北部地域の分離独立運動については、中国の近代史では殆ど知られていないでしょう。しかしながら、満州国がなぜ国家として、蒋…
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日本の敗戦後は、日中戦争での戦争責任は全て日本に在るという結論で、事後処理が行われました。満洲国についても、「日本に支配された」という話で無ければ、満州国皇帝と満州国の民衆には戦争責任が及びます。 戦後の東京裁判では、1…
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現在の歴史では、日本が一方的かつ強引に満州国を建国し、日本の国益のために「傀儡国家」として支配したことになっていますが、これは大きな間違いです。満州国は、元々、清帝国だった満州民族が母国の領域である満州で、分離独立し、自…
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1932年2月18日(昭和7年2月)、大満州国は独立を宣言し、1932年3月1日(昭和7年3月)を国家成立元年とし独立を果たします。愛新覚羅溥儀が元首となっています。 満州事変から第1次上海事変に至る展開は、日本の軍事力…
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上海は、蒋介石政府の置かれた南京から至近距離にあり、尚且つ、イギリス、フランス、イタリア、アメリカ、日本などが、多くの外国人居留民を滞在させていた中国の対外貿易の中心的国際都市でした。第1次上海事変は、蒋介石の目を北部よ…
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満州事変は、1931年9月の南満州鉄道の路線爆破未遂事件から始まり、1932年3月の満州国の建国で収束に至りました。これにより、蒋介石政府の「中華民国」から、中国東北部の満州地域とそれに隣接する内蒙古族(モンゴル族)の東…
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