満州国建国の真相2-東内蒙古と満州帝国

満州国建国の真相2-東内蒙古と満州帝国

満州事変は、1931年9月の南満州鉄道の路線爆破未遂事件から始まり、1932年3月の満州国の建国で収束に至りました。これにより、蒋介石政府の「中華民国」から、中国東北部の満州地域とそれに隣接する内蒙古族(モンゴル族)の東部地域が、国家として、分離独立を果たしました。

内蒙古は、満州と同様、豊富な天然資源の算出が見込める土地であり、日本との経済協力体制は自分たちの経済発展に欠かせないものです。満洲地域が蒋介石政府の「中華民国」から分離独立するのであれば、当然、一緒に独立を果たす選択に至ったといえます。

満州事変や満州帝国建国など当時の歴史については、見落とされがちな視点として、経済的な関係があります。日本は、満州や内蒙古さらには東シベリア等で産出される天然資源の「最大の消費国」であり「最大の輸入国」でした。

インドを植民地化したイギリスの様に、インドでの農業生産物を他国へ輸出して利益を得ていたのではなく、満州帝国で産出した石油や鉄鉱石などの天然資源を直接消費国として輸入していたのです。天候に大きく左右される農業生産物と異なり、石油や鉄鉱石など天然資源産業は、国庫経済として「安定化」をもたらします。中国の植民地化を図るイギリスやフランスにとっては、満州蒙古地域の天然資源は非常に魅力的です。そこで、「蒋介石」を使って、満州と日本からその利権を略奪しようと動いていたのです。これが蒋介石が「北伐」を起こした「根本理由」です。「中国統一」はあくまでも名目でしかありません。

そうした中、日本は、現在の国際協力関係と同様かそれ以上に「巨額の投資」を行い、鉄道整備だけでなく、都市(駅周辺)のインフラ整備や学校なども含め、経済発展に大きく貢献していました。彼らが「自力で存続」出来なければ、やがては欧州の植民地となり、結果、日本も植民地化されるという「運命共同体」であったといえます。

満洲と内蒙古

 

以下は、内蒙古の地図(Wikipediaより)です。赤い部分が内蒙古です。内蒙古に黒い線がありますが、これが、満州国が成立した際に、黒い線より右側(東側)が一緒に分離独立した地域です。その右側(東側)のクリーム色の部分が元々の「満州民族の領土」です。

一番上から、黒龍江省、吉林省、遼寧省となっています。

満州帝国は、満州という名称から、内蒙古族の印象が弱いですが、実際は満州族と東部内蒙古族の大きく2つの異民族の王国が合体した国であり、だからこそ「帝国」だったのです。日本が大日本帝国として後に47都道府県となった47個の王国の合体国家であったことと同様です。

満州事変では、日本軍は1932年1月28日頃より満州北部のハルビンへ攻撃を本格化し、1932年2月3日には都市の占拠及び入城が完了しています。ハルビンは満州北部(黒竜江省)の政治経済の中心都市であり、この都市を日本軍が占拠することは、黒竜江省全域を実質掌握したことと同じ意味を持ち、同時に、これにより満州国独立の準備が整ったことを意味しました。この独立は満州民族だけでなく、東蒙古地域も含め、多くの小民族による独立でした。

 

一方、蒋介石は、満州事変勃発直後から、抗日反日運動を更に過激化させ、各地では日本人居留民の無差別襲撃も深刻化していました。蒋介石軍の残虐性を考えれば、極めて攻撃的であり、居留民の生命財産に危険が及ぶ状況だったのは想像に易いといえます。1932年1月28日から始まる上海での日本軍と蒋介石軍の軍事衝突でも、当然、こうした蒋介石側からの攻撃が発端で起きています。

第1次上海事変は、蒋介石側のこうした暴挙を、日本が逆手にとって、満州国の独立を確実に達成するために利用したといえます。そのため、満州北部のハルビン城への日本軍到達を待ち、1932年1月28日に起きた蒋介石側の襲撃事件を、大規模な軍事衝突に発展させることで、蒋介石側の目を満州地域から背ける狙いがあったといえます。

 

「歴史写真」では、上海市街地での戦闘は1932年3月3日で停戦とありますので実戦は約1か月に及んだようです。日本側としては、1932年3月1日の満州国の正式な建国を待ち、上海での戦闘を休止したといえます。日本の目算通りだったといえますが、直後より、イギリス、アメリカ、フランス、イタリアの4国公使が仲裁役となり停戦交渉が始まりましたが、5月5日までの約2か月間も停戦協定は成立調印に至りませんでした。

蒋介石は、国際的な立場上、「中国の代表者」を主張しており、国際連盟の中核は中国の植民地化を目論むイギリスやフランスですので、当然、満州国については承認するわけはありません。こうしたう状況では、本来であれば、蒋介石軍が再度「北伐」を行うところです。建国直後の国家として不安定な時期に、隣国から「大軍」で攻め込まれれば独立失敗に成り兼ねません。それを見越して、国際連盟を利用し、日本と支那(蒋介石政府)間に「不可侵条約」を結ぶ方向へ、当初より「結論を持っていく」計画だったと考えます。

停戦交渉に2カ月掛かったのは、建国直後の満州国に対し、蒋介石が軍事侵攻を起こさないよう時間稼ぎの目的だったといえます。また、日本と蒋介石政府との間に「不可侵条約」が締結されれば、満州国は、日本が占領した領土に建国された国家です。蒋介石が「北伐」を起こすということは、日本に対する「宣戦布告」と同じ意味となります。これは当然、国際協定違反になります。これを破れば、蒋介石政府が、国政連盟から「制裁対象」です。

当時、満州国建国の直後から、国際連盟からリットン調査団が満州を訪問しており、この調査で満州国の建国が実質的に承認される方向で目途が付いたため、蒋介石側と停戦協定を結ぶことに同意したというのが真相でしょう。満洲国としては、相当に「大歓迎」をし、民族独立として「納得」させることは出来たのでしょう。