北支自治運動の真相2- 北支事件

北支自治運動の真相2- 北支事件

昭和7年(1932年)3月1日に満州国は建国し、2年後の昭和9年(1934年)3月1日には、清帝国の皇帝であった愛新覚羅溥儀が満州国の皇帝となり、帝政が復活します。当然、満州帝国とは、清帝国の母国領土での再興であったといえます。この2年間は、満州国側は、南部の蒋介石政府とも大きな軍事衝突はなく、着々と国家の基盤を固めて行きました。

こうした状況を受け、国境を接する中国北部でも、蒋介石政府からの分離独立に向けた動きが進んで行きます。蒋介石は満州国独立以降は、何としても北部の領土は死守したかったでしょう。抗日反日に加え、満州に対しても反満の姿勢を露わにし、北部地域(北支)では民衆運動の鎮静のため独裁的な傾向を強化していきました。

そうした中、昭和10年(1935年)6月、日本軍が北支へ軍隊を派遣する事態が発生しました。これは「北支事件」として「歴史写真」で記事になっています。事件発生の原因は、蒋介石による反日反満政策により、不祥事件(襲撃や略奪や破壊)が頻発でした。これの対応を巡って、蒋介石軍と日本軍が睨み合いになったようです。

昭和10年8月(1935年8月)発行「歴史写真」から
昭和10年6月(1935年6月)北支事件-我水兵の天津市街行進

記事:

最近北支那に 於て凶悪なる 抗日反滿の不詳事件瀕出するに鑑み、 帝國陸軍は同地方の 責任者に対し厳重なる 通告を發しれるが、是に伴ひ旅順在舶中の我 が照逐艦『藤』『蔦』の 二隻は、六月十一日出港、天津日本碼頭に到着した。

写真:

寫真は當日 右兩艦の乗組員が隊 伍堂々天津に上 陸、市街行進 の光景である。

 

第一次上海事変により、日本と蒋介石政府の間では「停戦協定」が締結されましたが、蒋介石が「満州地域」を含め北部の天然資源を諦める訳はなく、その後は、反日、反満の政策を強化し、北支那では「不祥事件」が頻発。不祥事件という「穏やかな表現」ですが、実際には、日本軍が軍隊を派遣するほどには「深刻な攻撃」が頻繁に続いていたといえます。

満州側とすれば、これを機会に、蒋介石政府の「中華民国」との間に、緩衝地帯を設けることで「大きな防御壁」を設けるという「目論見」はあったかと思います。蒋介石が、反日や反満を止めれば済む事でしたが、激化の傾向は変わらず、日本と満州側は、軍事対立に踏み切ったといえます。

昭和10年8月(1935年8月)発行「歴史写真」から
昭和10年6月(1935年6月)北支事件-我陸軍の代表者達

記事:

北支那に於ける支那側の不法なる反滿抗日行為に對する、我陸軍の嚴重 なる通告は、在北支抗日諸機闘の撤去、並に事件關係者の罷免及びその處分等で、支那側をして是等の要求 を完全に實行せしめんが爲め、我方の代表者等は、新京、奉天、北本、 天津間を頻繁に往来して謀議を進め、殆ど席の暖まるひまがなかった。

写真:

寫真の右上は新京なる關東軍幕僚會議 に臨む酒井大佐、儀我大佐、松井張家口特務機關長。又左上は奉天より 天津に飛來した土肥原少將。左下は 六月九日揚村附近に於て子學忠軍が 我軍用電柱を焼却したる現場である。

注)于学忠 :奉天派(満州系)の軍人。張学良の易幟後は国民政府(国民革命軍)。張学良の配下の軍人

記事には「在北支抗日諸機闘」とありますので、蒋介石政府では、かなり組織化した反日反満活動が繰り広げられていたようです。日本は、支那(蒋介石政府)側へ、こうした「不祥事の発生防止」を何度も勧告していたようです。これを無視していたため、軍隊を派遣して「威嚇」する事態となり、日本の代表者は、勧告要求を実行させるために奔走していたようです。こうした北支での対立が、後の「北支事変」と呼ばれる、北支側の分離独立軍事クーデターに繋がって行きました。北支事件は、北支事変の前段階での「衝突」と言えるでしょう。

 

昭和10年8月(1935年8月)発行「歴史写真」から
昭和10年6月(1935年6月)北支事件-天津の我陸軍

記事:

北支に於る我方の既定方針は寸亳も是を 曲ぐるものにあらず、北支の治安確保並に排日反満の取締等に闘して、萬一支那側が誠意を示さざるに於ては、我方は断乎たる手段に出づるの方針を以て、異常なる緊張裡にその推移を注視しつつあったのであつた。

写真:

寫真の右上は 天津の營庭に整列したる我が 出動部隊。又下段は我北支駐 屯軍交代兵中の天津部隊が、六月十二日天津に到着、海光寺兵舎に向て行進中の光景。 左上は六月十日揚村なる我が 軍用電柱焼却の現場に出動しれる指揮官堂ノ腸參謀大尉等

 

この「北支事件」の記事に「北支の治安確保」とありますが、これを蒋介石政府側に要求したということは、北支での治安が非常に低下していたことが伺えます。一方、こうした蒋介石政府の反日政策を、北支で実行していたのは、張学良の配下の者ですので、張学良の指示であったといえます。要は、張学良は、排日反満の姿勢を取りながら、結局は、この頃から、それを理由に日本軍を中国北部へ派遣させる「理由」を与えていたともいえます。

張学良が、蒋介石政府の排斥(北支の分離独立)を目論んでいたと考えれば、その後の「北支事変=北支の分離独立クーデター=中華民国の奪回」に向けて、着々と駒を進めていたかも知れません。張学良は、日本と満州の敵という「立場」でしたが、実際に遣っていることを見れば満州国を防衛するために、有利な展開に導いています。 反日政策の先頭に立ち、敢えて日本人を襲撃し、治安低下を招き、結果的に、日本軍を中国へ上陸させる「口実」を作ったも同然です。

北支の分離独立に、日本を非常に上手く巻き込んで動かしていたとも考えられます。日本が、張学良と水面下で繋がっていたかは不明です。蒋介石に手の内を読まれれば、計画は頓挫しますから。ですが、満州も含め、旧北京政府側の要人の人々には「蒋介石の排斥」という共通の認識は有ったのでは無いでしょうか。張学良は、常に、自分が投げた「石」に、相手がどう「反応」するかを読んだ上で、非常に巧みな戦略を実行していたと考えます。

 

昭和10年8月(1935年8月)発行「歴史写真」から
昭和10年6月(1935年6月)北支事件-我駆逐艦と装甲自動車 / 成都に於ける蒋張会見

記事(写真):

(右上)六月十一日北支の 風雲急を告ぐるや、萬一を慮って旅順より天津に 廻航したる我が駆逐艦、 『藤』と『葛』。
(下段)六月 九日、揚村に於て我用電柱が子學忠軍の に焼却せられたるに 十日天津駐屯軍の一部は、堂ノ脇參謀指揮の下に 直ちに現場に出動した。 寫真は裝甲自動車を先頭に天津を出發する我軍

(左上)張学良氏は6月4日漢口より成都に飛来し、北支事件に關し蒋介石氏と會見協議するところがあった。寫眞は當日會見後の左端は蒋介石氏。右端の背廣服は張學良氏。

会見後の蒋介石と張学良ー写真拡大

この二人の表情をどう見るかですが、張学良の方はこの会見で、北支での自治を認めさせる方向で話を切り出したのではないでしょうか? 当然、蒋介石は納得するわけはなく、会見は意見が合わず決別に近かったかも知れません

一方、蒋介石にとっては、共産党との戦争が進行中である中、北部の統治は、張学良に全て依存せざるを得ない状況であったといえます。蒋介石が、当時、成都にいた理由は、この頃は、蒋介石政府は、中国共産党の討伐を行っていたと同時に、イギリスがチベットへ進攻したため、中国軍も援軍を送ったためです。成都は、中国の四川省にある都市で、位置的には西部になります。チベットへは、古来より、成都からシルクロードの山越えルートがあると言われ、チベットへは「中国側の玄関」のような都市です。又、成都からは、西安へもルートがあります。

 

参照元 : Nature Japan Nature ダイジェスト Vol. 13 No. 5 News Scan 山越えシルクロード

 

当時の中国では、北部東北部は満州系の旧北京政府南部南東部は漢民族系の蒋介石政府が台頭していました。一方、西部西北部は、既に共産主義化した外蒙古に近く、中国共産党が台頭していました。現在のウクライナのあるバルカン半島では、イギリスとロシア(旧ソビエト)が常に対立状況にありましたが、極東でも、イギリスはロシア(旧ソビエト)を常にけん制しており、中国の植民地化を進め北上すれば、ロシア(旧ソビエト)との衝突は回避しようがありません。そのため、ソビエト(ロシア)の支援を受けていた中国共産党の撲滅を画策していました。当然、イギリスの傀儡政府である蒋介石政府は、中国共産党との戦争に明け暮れることになります。張学良が、その後、西安で「蒋介石監禁事件」を起こし、中国共産党との停戦協定を画策した理由も、西安から北西が中国共産党の勢力地域だったからです。

当時、蒋介石はチベット方面への対応のため、自ら西部の成都へ出向いて指揮を取っていたようです。張学良は、その状況を上手く利用し、北支の分離独立クーデターの前段階として、北支の自治権を認めさせる段取りをしていたとも考えられます。そのように考えると、張学良の策士ぶりには驚きを隠せません。そのうち「近代三国志」が出来そうですね。

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