北支自治運動の真相3- 北支那の自治宣言

北支自治運動の真相3- 北支那の自治宣言

満州国が帝政に変わった翌年、北支では「北支事件」を経て、蒋介石政府からの分離独立の機運が高まって行きました。当時の日本は、独立機運の高かった内蒙古の西部地域とも、天然資源の輸出入ビジネスを展開しており、そうした貨物は、北京から北西へ抜ける鉄道網により運搬されていました。物資の運搬は、内蒙古側からは、張家口から北京を経由し、天津の港への「輸送ルート」がありました。また、内蒙古東部も含め、満州国からは、満州方面から海岸沿いの山海関という場所を通過し、そのまま南下して塘沽や天津の港を経由する「輸送ルート」がありました。

日本にとっては、こうした鉄道網の安全を確保する事は、自国の経済の安定的発展にとって必須でした。これは満州と蒙古にとっても、更にはロシアにとっても重要です。北支の各港は、日本への海上輸送の拠点です。満州国独リル後も、北支那は、満州国、日本、共に、非常に重要な地域であったことは言うまでもありません。

また、満州国にとっては、蒋介石政府に対する「防衛」という意味で、国境の南側の地域が蒋介石政府から分離することは、歓迎する事態だったでしょう。それ自体が「防衛壁」になるからです。一方、北支那の中国人にとっても、治安回復と維持は生活に必須です。蒋介石政府内では、日本居留民への襲撃が後を絶たず、結果、中国人一般市民も巻き込まれ命の危険に晒される事態が続いていました。これを根本的に打開するため分離独立を望んだとしても不思議はありません。いきなり分離独立では、蒋介石政府に軍事干渉を受け潰されます妥協案として「自治政府の設立」であったと言えますが、北支での自治政府の設立は非常に大きな意味がありました。

昭和11年1月(1936年1月)発行「歴史写真」から
昭和10年11月(1935年11月)支那ニュース

記事:

北支の自治運動に、南京政府は、狼狽措くところを知らず、 自治宣言の裏に日本の軍部ありと誣いて英米諸國を動かさんとし、形勢気々險惡の度を加へ、支那四百餘州は今や全く一大變革の危機に直面するに至った。

写真は最近の支那ニュースで、右上は中山陵を訪ひたる蒋介石氏。
中上は上海に於ける中山水兵襲撃事件直後、日支開戦のデマに驚き避難せんとする市民。
左上は射殺された中山水兵
右下は上海に於ける我在支海軍首脳会議
左下は国家の大事と許り南京に馳せつけた馮玉祥氏

「歴史写真」では、北支の自治運動について大きく取り上げた記事は無いようです。しかし、このページの通り、昭和11年11月時点で、北支では自治宣言が発せられるほどに、蒋介石政府からの分離独立の機運が高まっていたことが伺えます。南部政府=蒋介石政府としては、非常に困惑していたと報じられています。

昭和11年6月の「北支事件」から約5カ月後には、北支の自治宣言が発出されており、これには当然、満州帝国と同盟関係にあった日本が、「北支事件」以降に日本軍を北支へ派遣し、蒋介石政府から自治を望む民衆を実質的に守っていたからこそ達成したことと言えます。

 

昭和11年2月(1936年2月)発行「歴史写真」から
昭和10年12月(1935年12月)北平(北京)を覗く

写真の拡大ー自治運動の中津衛戌司令部

記事の拡大

記事:

自治の呼聲は療原の火の如く、今や北支一帶の山野に満ちわたり、多年國民政府の暴政治下に呻吟たる大民衆が、自由を求めて起ち 上らんとする激潮たる意気に對し ては何ものの力も是を抑壓するこ とが出來ない。

写真:

寫真は北支自治運動の中心たる清朝の舊都北平の一面を覗いたもので、上段右は、遠く幾百里を隔つる絞遠、山西、察 哈爾又は蒙古等より其地方特有の雜貨を駱駝の背に積み、北京の街に入り込み來れる隊商の群れ。
段左は這次自治運動の兵頭宋哲元氏を司令に戴く中津衛戌司令部 正面。
右下は北支の自治運動に對 し、南京政府の特使として北平に入り込み、解決に向て努力しつ ある何應欽氏の宿所房仁堂の光景

注)宋哲元 : 元北京政府の軍人。馮玉祥配下の「五虎将」(他は張之江・鹿鍾麟・鄭金声・劉郁芬)の1人。張学良の配下。

このページでは、北支自治運動が「北京を中心」に大きな民衆運動となっていたことを報じています。この時、自治運動の主導者は、馮玉祥の親衛隊ともいえる人物であった宋哲元でした。馮玉祥は元は北京政府の軍人で、「北伐」では蒋介石政府側に付いた人物です。しかし、「北伐」での張作霖の暗殺や、「易幟」を経て、蒋介石の独裁的な政治に反発し、反蒋戦争を起こしました。中原大戦では蒋介石と敵対関係でした。その後、張学良の下で、蒋介石政府側の要人となりました。

北支の自治運動は、この馮玉祥の直属の配下である人物によって主導され、達成されたのです。ここでも、蒋介石政府側ではあるものの、張学良も、馮玉祥も、その配下の宋哲元も、結果的には、満州国に有利な状況になるように動いていたと言えます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA