満州国建国の真相5-極東和平の楽土 大満州国の建設

満州国建国の真相5-極東和平の楽土 大満州国の建設

現在の歴史では、日本が一方的かつ強引に満州国を建国し、日本の国益のために「傀儡国家」として支配したことになっていますが、これは大きな間違いです。満州国は、元々、清帝国だった満州民族が母国の領域である満州で、分離独立し、自分達の国を再興して出来た国家です。日本は、元々、清帝国時代初期から、清国とは長い交流がありました。天然資源産業での国際ビジネスパートナーでもあり、両国とも、欧米によるアジアの植民地化という国家存亡の危機を抱えていました。協力体制を取るのは当然の成り行きです。

日本は、満州民族と北支那を中心とする中国人達と、独裁と植民地化を進める蒋介石と戦っていたのです。そのため、日中戦争ではなく、日蒋戦争でした。更にいれば、実態は、反蒋介石戦争であったのです。満州国は、「北伐」で潰された北京政府が、巻き返しを図るための「第一段階」であったといえます。この国家の成立には、同じ利害から東蒙古が加わりました。この独立では、日本軍が「表層」に立って、日本が軍事占領した形を取ったため、彼らが直接的に蒋介石政府軍と「軍事衝突=戦争」することなく、結果、人的被害を殆ど出さずに、独立を勝ち取るに至りました。建国時は、全国の様々な民族が祝賀パレードに参加するほど、満州国の人々にとっては「悲願の独立」だったのです。

 

昭和7年5月(1932年5月)発行「歴史写真」から
1932年3月1日 極東平和の楽土、大満州国の創建

記事:

張學良の壓制と搾取及び南京政權の暴戻に完膚なきまで責めさいなまれる満蒙三千萬の民衆が、一日千秋の思いを以て待望したる新国家創世の機運は刻々進展して愈々三月九日新都長春に溥儀氏の執政就任式舉行せられ、新國家『大滿州國」はかくて完全に成立を告ぐることとなった。

全満連合大会-異なる小民族が連合を組んだようです。

 

左ページ

記事:

昨昭和六年九月十八日の深夜突如として勃發したる奉天柳條溝に於ける日支両軍衝突以来、光輝ある皇軍の武威に、暴戻非道なる東北軍閥が心地よきまで粉碎せらるるや自主独立要望の声は忽ち全満州をどよもし爾來僅かに半歳、早くも此の東亜の新天地に平和の樂土の創成を見るに至りたるは、これが第一の善隣たる帝國として、又何物にも換え難き歓びである。

注)どよもし:鳴りひびかせる

写真:

寫眞の頁の右は三月九日執政就任式を前にして奉天大通りに建てられたる大アーチ
中上は奉天城の大城壁に張り出されたる建国宣傳。
どうした二月二十七日より奉天に於いて興行せられたる新国家建設促進運動大会に於ける支那青年達の趣向を凝らしたデモ振り

後ろの頁の右上は三月九日執政就任式を興行したる長春市政公所。
左上は清制定の大満州国旗。
同下は奉天城内新国家促進運動大会の賑わいである。

因みに三月九日執政就任式の當日溥儀氏はモーニング姿に焦茶のネクタイ、真珠のピン、色眼鏡をかけて端然設けの席に就き、天晴れ新国家の元首たるに恥じない堂々たる態度であった。

 

新国家建国促進運動大会のパレードー写真拡大

昭和7年4月(1932年4月)発行「歴史写真」から
中華民国からの独立を果たし喜ぶ満州民族と蒙古民族

新国家促進運動大会の賑わい ― 満州と蒙古の民による祝賀パレード
以下は、独立宣言に際し満州蒙古の民族が夫々の民族衣装を身に付け祝賀パレードを行っている様子です。

上の写真を見れば、かつて製作された「ラスト・エンペラー」という「映画」が如何に「歴史の真実と間違っているか」が非常に良く解ります。

日本は、こうした「間違った歴史」を、日本からの映画やドラマを通じて「歴史訂正」すべきだと思います。

これまで、日本の主張には「確固たる根拠」が示せませんでしたが、私がこのサイトを通じて「正しい歴史」を発信します。

 

特に、これから日本を背負う若者の方々へ

日本が本当は何をやっていたか、世界へ向かって、映画やドラマや小説などを通じて、積極的に訴えて頂きたい。

世界からの「深刻な誤解」は、一般の日本人の大衆市民が自ら立り、主張しなければ、誤解を解く「切っ掛け」さえ作れません。

中国で、中国共産党に対し残虐行為を繰返していたのは、敵対していた「蒋介石軍」です。「日本軍」ではありません。日本は「戦争」はしましたが、この点では「無実」です。中国を侵略などしていません。

国際連盟での国際承認の否認決定

こうした大満州国の独立に対し、蒋介石側であったイギリスやフランスなどが猛反対するのは必然です。蒋介石は当然承認などする訳はありません。自分が支配下に置き、軍事借款の返済資源を確保したかったのですから。当然、翌年1933年2月(昭和8年2)月の国連総会でも、主要国であった欧州諸国には否認されています。蒋介石が元首であった中華民国にも、当然、国際承認は拒絶されています。

これについても、現在の歴史では、日本が一方的かつ強引に満州国を建国し、国際連盟に承認を拒否されたため、国際連盟を脱退したような印象ですが、当時の国際連盟はアジアで植民地化を図るヨーロッパ諸国とアメリカが主導した連盟であり、中国の植民地化の徹底阻止を図る日本とは初めから相容れる関係ではありませんでした。

むしろ、これを機会に国際連盟を脱退することで、中国アジアの植民地化を阻止するため、中国本土からイギリスやフランスを排除する方向へ舵を切る決断をしたともいえます。そして、翌年1934年3月1日(昭和9年3)には、大満州国は帝政になり、元首であった愛新覚羅溥儀が皇帝として即位し、満州帝国が成立します。

 

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