張学良の西安事件は日中戦争での「最大の謎」とまで言われています。蒋介石の側近ともいれた張学良が、蒋介石を襲撃し、拉致監禁する事件だったからです。しかし、「張作霖爆殺事件の真相」を読めば解る通り、張学良の父である張作霖を暗殺したのは「蒋介石」です。日本軍ではありません。それを知りながら、蒋介石に、まるで側近か親友かの様に近づき、日本と満州国(張学良の母国)と対立する立場を貫いていました。
だからこそ、西安事件が「謎」と言われるのですが、父親を暗殺した蒋介石にとって、最も「骨身に堪える」復讐を考えれば、強大勢力を誇る蒋介石の命ともいえる国民政府を完全崩壊させ、蒋介石の領土を全て奪い、多額の軍事借款を背負わせたまま、中国から完全排斥することでは無かったでしょうか?
張作霖の暗殺された翌年1月1日からの易幟(えきし)以降、張学良は、強大勢力を誇る蒋介石政府を潰し、同時に、「北伐」、「中原大戦」のような大規模な「南北戦争を回避」するために、自らの地位を利用して「おとり」となり、政府組織内部へ深く入り込み、「内部崩壊」を目論んだと考えます。
西安事件では、張学良は蒋介石を暗殺せず、身柄釈放に要求したことは、「容共政策の実施=中国共産党との停戦」、「対日即時宣戦」でした。蒋介石は、ソビエト(ロシア)と対立するイギリスに全面軍事支援を受けた傀儡政府であり、中国共産党とは長期の戦闘状態が続いていました。その翌年に、北支事変と第二次上海事変に端をなす「日中戦争=日本-蒋介石戦争」が勃発しています。このタイミングで、中国共産党勢力を、張学良が味方に付けられれば、「最終決起」の際に第3勢力である中国共産党の台頭を抑えることが出来ます。
張学良の西安事件は、「蒋介石への復讐」という「動機」で見直せば、十分に納得出来る事件だったといえるでしょう。
張学良西安事件の真相 一覧
西安事件(せいあんじけん)は、1936年(昭和11年)12月12日に、西安という都市で、張学良が、蔣介石を拉致監禁した事件です。張学良は、出身は満州民族でありながら、満州国の分離独立に反対し敵対する蒋介石側に付いた人物で… 続きを読む ...
西安事件では、張学良は、蒋介石政府(国民政府)に対して、釈放条件として幾つかの「要求」を行ったようです。「歴史写真」の記事では、最も大きな要件として、「容共政策の実施」と「対日即時宣戦」の2つが掲載されています。「対日即… 続きを読む ...
西安事件での張学良の要求は、Wikipediaには「共産党の討伐停止」や「政治犯の釈放」など8つの項目だったと記載されています。ですが、ここでは当時出版された「歴史写真」の記事を基に、「容共政策の実施」に絞って、張学良の… 続きを読む ...
張学良は、蒋介石を西安で監禁し、蒋介石軍とは「軍事衝突」を前提に軍を集結させていました。現在の一般的な歴史認識では、蒋介石軍の方が、張学良と楊 虎城(よう こじょう)の連合軍よりも、軍事規模が大きく、張学良は勝つ見込みが… 続きを読む ...
西安事件(西安事変)を起こした張学良のその後ですが、昭和12年2月発行の「歴史写真」の巻末にある「世界日誌」にて、続報が掲載されています。 昭和12年2月(1937年2月)発行「歴史写真」から 昭和11年12月(1936… 続きを読む ...
張学良の西安事件が起きた頃は、蒋介石政府軍が共産党軍を徹底的に攻撃し、撲滅寸前まで追い詰めていました。現在も、中国では、日本が共産党と戦っていたと「大きな誤解」が生じており、日中戦争時代の映画やドラマでは、常に日本軍が共… 続きを読む ...
西安事件では死傷者も出ており、蒋介石と張学良が、共産党との停戦のために「一芝居打った」とは考え難いです。しかしながら、結果的に、敵対する共産党との「停戦」に至り、既に「財政破綻」していた蒋介石にとっては「望むべく展開」に… 続きを読む ...