張学良西安事件4-張学良の基本戦略

張学良西安事件4-張学良の基本戦略

西安事件での張学良の要求は、Wikipediaには「共産党の討伐停止」や「政治犯の釈放」など8つの項目だったと記載されています。ですが、ここでは当時出版された「歴史写真」の記事を基に、「容共政策の実施」に絞って、張学良の戦略を考えてみます。

張学良と蒋介石氏顧問ドナルド氏の会談

「容共政策の実施」

なぜ、張学良が突然「容共政策」を要求したのか? 張学良には、張学思という弟がいますが、Wikipediaによれば1933年4月に中国共産党に入党し、戦後は中華人民共和国の軍人となった人物です。1932年3月に満州国が国家として蒋介石政府より独立分離した一年後、弟が中国共産党に入党し、一方、1934年、南京中央軍校に入学しています。この張学思は、張学良と中国共産党との「接点」であったと言えるでしょう。

張学良が、蒋介石政府(国民政府)の内部崩壊を画策していたとすれば、蒋介石政府と共産党の敵対関係を利用しない手はありません。この対立は、イギリスとソビエト(ロシア)の対立に根付いていました。また、蒋介石と毛沢東の間も、蒋介石が毛沢東の二番目の妻だった女性を処刑したことから、感情面でも敵対関係が成立していました。毛沢東の二番目の妻は楊 開慧という女性で、長男から、毛岸英・毛岸青・毛岸龍の3人の息子がいました。蒋介石は、北伐完了後に、中国共産党の撲滅戦争を開始していますが、1930年、楊 開慧は捕らえられ30歳で銃殺されています。また、死亡時期や死因は不明ですが、三男の毛岸龍は4歳で死亡しています。母親と一緒に捕えられ殺されたか、母親の突然の銃殺により病死したかでしょう。毛沢東は、蒋介石に対しては、何をしても晴らせない程の心深い恨みがあったであろう事は容易に想像出来るでしょう。後に、「国共合作」は、蒋介石政府(国民政府)と中国共産党の協調体制だったような「歴史認識」がありますが、「軍事対立上の停戦」であり、協調体制に至るような「信頼関係」は根本的に築けない間柄であったことは明白です。

中国共産党の毛沢東は妻子を殺され、張学良は父親を爆殺されています。この二人は、当時の中国で、蒋介石を最も恨んだ二人だったと言えるでしょう。だからこそ、張学良は、実弟を通じて、中国共産党とのパイプを築いていたといえます。日中戦争(日本ー蒋介石戦争)では、「スパイ工作」などで協力していた証拠(工作資金の請求書)などから、毛沢東が日本軍と水面下で協力体制にあったと主張されている方もいます。これまでの「歴史認識」では不可解となりますが、毛沢東と張学良の関係、この二人による「復讐」という観点で見れば、張学良を通じて、日本軍と繋がっていた事は想像に易いでしょう。

張学良が、毛沢東率いる中国共産党に対し、具体的にどのような提案をしたかは不明ですが、張学良が動く事で、蒋介石からの攻撃を停止させる約束をし、その見返りに、満州国軍と日本軍の決起の際には、実施的に「中立」の立場を取るよう「約束」を交わしていたとすれば、この西安事件での共産党擁護の政策を蒋介石に認めさせることは大きな意味があったと言えます。

更に、もう一つの目的として、満州国(満州帝国)の独立維持のためには、中国西北部に「共産党勢力」を維持することで、その地域を、蒋介石政府側との「大きな緩衝地帯」として確保出来ることになります。結果的に、蒋介石を封じ込めに繋がったことは言うまでも無いでしょう。

軍事クーデターでの張学良

第3勢力としての中国共産党の利用

当時の勢力図では、大まかに、北部東北部は満州系政府(旧北京政府)、南部と東南部は蒋介石政府(南京政府)、西北部は共産党政府の分布となっていました。西北部は既に共産化した外モンゴルと接する地域です。蒋介石の「北伐」以降、中原大戦を経て、内蒙古の西部でも、蒋介石政府からの分離独立の動きが起きたのは当然の流れでしょう。外蒙古はソビエト(ロシア)により共産主義化が進んでいました。(「内蒙古独立の真相4- 外蒙古の共産主義化」参照)

蒋介石政府はイギリスと共に中国植民地化を画策していました。共産主義化か植民地化、内蒙古、ウイグル、チベット、その他、どちらの選択も有得ないとなれば、満州国政府(旧北京政府)側に付くしか選択は無かったと言えます。満州国政府(旧北京政府)としては、当然、内蒙古西部を独立させた上で、同盟に持ち込みたいところです。

この動きが進んでいる状況で、その内蒙古の南西部地域、即ち、中国西北が、仮に蒋介石政府軍に堕ちれば、内蒙古西部の分離独立は不可能でしょう。一方、蒋介石政府からすれば、中国西北部を掌握すれば、形勢を一気に逆転出来る「戦略上、重要な地域」であったといえます。張学良は、これを知っており、内蒙古西部へ、蒋介石政府軍が西安方面から勢力拡大を阻止するためには、中国共産党と「停戦」させ、中国共産党により、蒋介石政府との間に大きな壁を形成しようとしたと考えられます。

蒋介石は、中国西北部への軍事侵攻のために、軍事拠点であった西安で軍事会議を開催する途中で拉致監禁されました。中国西北部には、蒋介石政府軍を構成する「西北軍」が、楊 虎城(よう こじょう)を軍事総指揮官として配属されていました。一方、張学良は、「東北軍」の軍事総指揮官です。満州国独立により、東北部(満州地域)については満州国の建国と同時に指揮地域として失ったものの、中国北部(北京など北側の黄河より北部)では、蒋介石政府下での軍事指揮権の全権を握っており、その他の主要地域についても、張学良は相当な影響力を持っていたといえます。張学良が中国西北部の軍事指揮官である楊虎城と手を結べば、相当な軍事勢力となるため、蒋介石政府軍(南部南東部)にとっては、大きな脅威となった事は言うまでも有りません。

西北軍と東北軍(北部軍)に加え、これに共産党軍が加われば、蒋介石政府軍(南軍)を倒すことは出来たかも知れません。また、張学良は、監禁中の蒋介石をいつでも暗殺することは可能でした。しかし、張学良は蒋介石を暗殺せず、あくまでも「容共政策の実施」など「要求を飲ませる」だけで事件を収束しました。蒋介石を暗殺出来ない事情があったと言えます。

共産化した西安

昭和12年3月(1937年3月)発行「歴史写真」から
昭和12年1月(1937年1月)-世界日誌(1月6日~2月5日)

 

1月10日の記事拡大

1月10日:

支那国民政府(蒋介石政府)は、本日西安の赤化状態を確認し、西安は共産党領袖の参加せる抗日救済国により、その政治の実権を完全に奪取せられたる旨発表したり。

西安事件の翌月には、西安は赤化(共産主義化)が進み、中国共産党が統治権を完全掌握するに至ります。停戦の大義名分、即ち、敵対する蒋介石政府との協調体制の大義名分は、当然、「抗日救済」であって然るべきでしょう。これにより、西安から内蒙古西域、ウイグル、青海を含めチベットへ抜けるシルクロード・ルートは、中国共産党が「防御壁」となり、蒋介石政府軍の軍事侵攻ルートの遮断に成功しました。

張学良の父親は、辛亥革命以降、多くの軍閥が権力闘争を繰り広げる中、最終的にこれを纏め、北京政府を安定化し、北支那と東北地域で「大総統」の地位に上り詰めた人物ですが、長男の張学良も、匹敵するか、それ以上の、卓越した「軍師」であったといえるでしょう。

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