張学良西安事件5-なぜ蒋介石を暗殺しなかったのか?

張学良西安事件5-なぜ蒋介石を暗殺しなかったのか?

張学良は、蒋介石を西安で監禁し、蒋介石軍とは「軍事衝突」を前提に軍を集結させていました。現在の一般的な歴史認識では、蒋介石軍の方が、張学良と楊 虎城(よう こじょう)の連合軍よりも、軍事規模が大きく、張学良は勝つ見込みが無いため、張学良が蒋介石を解放したという話になっていると思います。

しかし、張学良はいつでも蒋介石を暗殺出来る状況でした。それにも関わらず、蒋介石顧問だったドナルド氏が西安を訪問し会談した直後に、蒋介石を釈放しています。ここでは、なぜ暗殺しなかったのか、又は、なぜ暗殺出来なかったのかを考察したいと思います。

1.巨額な軍事借款債務の責任回避

張学良が、蒋介石を暗殺しなかったのは、やはり蒋介石政府が累積していた巨額の軍事借款が最も大きな理由だと考えます。蒋介石が居なくなっても、蒋介石政府(国民政府)により累積された「巨額な軍事借款債務」が消滅する訳ではありません。蒋介石の政府後継者という話になれば、立場上、張学良が背負うことに成り兼ねません。

張学良の目的が、蒋介石政府の内部分裂であり、中国からの追放であったとすれば、蒋介石には「巨額な軍事借款債務」を背負ったまま、政府として崩壊させるのが、中国にとっては最もリスク回避になるでしょう。蒋介石に軍事支援をしていたイギリス、フランス、アメリカなどの国々は、蒋介石政府が崩壊すれば、「巨額な軍事借款債権」が「巨額な国家債務」になります。これだけでも、大きな打撃を与える効果もあるといえます。

また、蒋介石の政府を抱懐させ、追放することは、蒋介石にとって最も残忍な仕打ちになるでしょう。全ての借金を背負い、国外追放となれば、自殺か暗殺しか無いでしょう。対外軍事借款はあくまでも蒋介石政府の借款であって、その政府から独立した国家や新政府には、債務返済責任はありません。半年後の「全中国の独立決起」を前に、西安事件を起こし、このタイミングで、張学良が、政府の要人の地位から外れておくのも「良い判断」だったと言えるでしょう。

張学良は、父親ともども、「易幟」に屈した事で、結果、汚名を着ることになりました。父親の復讐という意味では、単なる暗殺では許せなかったのでは無いでしょうか?

そのため、蒋介石は暗殺しては行けなかったと言えるでしょう。

 

昭和12年2月(1937年2月)発行「歴史写真」から
昭和11年12月(1936年11月)-支那張学良氏の兵變

 

 

十二月十四日 蒋介石氏顧問ドナルド氏が西安に於て張學良氏と會見の有樣

2.再度の内乱状態の回避

もしこの時点で張学良が蒋介石を暗殺した場合、張学良は満州民族出身ですので、南部の漢民族政府を纏めようとしても、政府内での指示は得られないでしょう。また、仮に、張学良が南部軍を掌握出来たとしても、今度は、共産党がその機会を突いて攻撃を仕掛けて来るのは必須です。

当時は、共産党が撲滅寸前の状態でした。蒋介石の暗殺直後は絶好の形勢逆転の契機になります。中国の西域で「軍事紛争の激化」が見込まれる上、中国の南部や東部でも、張学良に従う派と、反発する派の間で、利権争いが起き、再び、中原大戦のような「内乱状態」に陥り兼ねません。そのため、張学良は、あくまでも蒋介石に共産党とは「停戦協定」を結ばせたかったと考えます。

 

3.ソビエト(ロシア)軍の南下の阻止

蒋介石政府と共産党の間で「停戦」に至れば、蒋介石政府軍は、共産党の勢力地域(西北部)に、それ以上、軍事侵攻する理由が無くなります。共産党の勢力地域は、内蒙古西域、ウイグル、ソビエト(ロシア)と国境を接しており、勢力圏が重なっている地域もあります。半年後、そうした地域に、満州事変の様に、日本軍が進出した場合、蒋介石政府軍が撤退していれば、蒋介石政府軍と日本軍の間での「大きな軍事衝突」と、それに伴う「深刻な人的被害」は回避出来るでしょう。

共産党は表面的には蒋介石政府軍側で参戦しても、「停戦仲介者」である張学良の水面下での要望通り、実質、日本軍と戦わなければ、日本軍の占領が問題無く進みます。まで行けば、夫々の地域で、「蒋介石政府からの分離独立」が達成出来ます。

張学良の西安事件(西安事変)が、結果的に、同年末の内蒙古西域の分離独立が可能な状況を生み出し、更には、その後の、北支事変以降、日中戦争でのソビエト(ロシア)軍の南下を抑え込む状況を生み出したといえるでしょう。

 

写人の拡大 :左から張学良、張学良夫人、蒋介石夫人、蒋介石

蒋介石政府と中国共産党の長期軍事対立

現在の一般的な歴史では、蒋介石政府と中国共産党の間での長期に渡る「軍事衝突」については良く知られていません。張学良が、西安事件の結果、蒋介石政府と中国共産党政府の間での「停戦協定」を結ばせるに至り、同時に、張学良が「対日即時宣戦」を蒋介石に要求したことから、「国共合作」という名称で、まるで蒋介石政府と中国共産党が、日本と戦争するために「同盟関係」を築いたような印象になっています。

しかしながら、日中戦争とは、表向きは日本軍が対戦国のようで、実質的には、満州国政府(旧北京政府)が、蒋介石政府との間での「南北戦争」の延長であったことが「真相」であり、張学良は、北支の分離独立(北支事変)を有利に展開する為に、中国共産党を潰滅の危機から救う形で、実際には、中国共産党を味方に付け、利用しようとしたのでは無いでしょうか。

張学良は、蒋介石政府内では、政府を二分する程の大きな力を持っており、東北軍は元より、山西軍、北西軍など含め、張学良が蒋介石政府軍を実質的に掌握していたと言えます。「政治的な要求」であれば、蒋介石は、張学良を処刑までは出来ません。蒋介石の地位を脅かしたわけでは無いからです。自分が「処刑されない」ことは計算の上だったでしょう。仮に、張学良が処刑されれば、主要軍閥が確実に「反蒋介石」で軍事行動に出ることが見込まれます。

結局、張学良は、蒋介石を暗殺出来ず、蒋介石も、また、張学良を処刑出来なかった。これを見越して、西安事件に臨んだとすれば非常に大胆な「戦略」だったといえます。

 

「蒋介石の中国追放」という共通利害

張学良と中国共産党との間では「蒋介石の中国追放」という共通の利害の一致がありました。これは、満州国、中国北部(北支)、内蒙古西部とも共通する利害です。日本とも利害の一致する内容でした。偶然かも知れませんが、西安事件を起こす数年前より、張学良は共産党の討伐という名目で、中国西北部での軍事指揮権を握る立場になっていました。

Wikipediaによれば、西安事件の半年程前、昭和11年(1936年)4月9日に、張学良は共産党の周恩来と延安で会談を行っています。何が話し合われたかは不明ですが、戦況の不利な共産党からすれば、「停戦協議」に持ち込みたかったでしょう。そのための会談だったと考えます。

一方、蒋介石は、イギリスの手前、共産党との戦争を停止出来なかったと言えます。そこで、共産党との停戦を条件に、その後に起きる中国全体での分離独立軍事クーデター(北支事変+第二次上海事変)では、日本軍を攻撃しないよう「水面下での協定」交渉があったのではないでしょうか。

蒋介石は、共産党を率いていた毛沢東の二人目の夫人を処刑しています。蒋介石と毛沢東の間には、「政治的妥協での停戦」はあっても、「協力体制」や「同盟関係」は成立しなかったといえます。この関係性も、張学良には、事態を有利に展開する要素になったと言えます。

張学良は、蒋介石の知らないところで、蒋介石を政府内で孤立させるよう綿密な計画を立て、北支事変の前に、共産党と蒋介石政府を「停戦」させ、実質的に、北支や内蒙古への、蒋介石軍の軍事侵攻を妨害したと考えます。

張学良は、無能な人間という印象が強いですが、実際には、日中戦争は張学良が操っていたと言っても過言では無いほどの「軍師」であり「策士」であったと考えます。

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