昭和14年(1939年)7月の日英会談(有田・クレーギー会談)後、汪兆銘を中心に、北京政府と南京政府が平和的な統合に向けて協議を重ね、昭和15年(1940年)3月、新支那中央政府が遂に樹立しました。戦後、この政府は「日本の傀儡政府」とされましたが、実際には、中国人が中国全体のために樹立した政府でした。ここでは、この政府が、これまで我々が聞かされていたものとは、全く異なるものであったことをお伝え出来ればと思います。
戦後の歴史は、全て、「日本が中国侵略をした」という前提でシナリオが作られました。この新支那中央政府については、歴史からは「消去」された様な扱いになっています。しかし、この政府の樹立こそが、日中戦争の最大の目的であったといっても過言ではないでしょう。
そして、この政府の樹立では、上海に花火が上がり、各地でお祭りのような祝典が開かれました。裏返せば、当時の中国では、蒋介石がいかに中国民衆から憎まれていたかが理解出来ると思います。また、日本と中国がお互いに協力し支え合って、中国の再生に辿り着いた証であり、かつての日本と中国の本当の関係を示すものといえるでしょう。
新支那中央政府樹立の真相 一覧
昭和14年(1939年)7月の日英会談(有田・クレーギー会談)後、日本政府と、奪回後の「中華民国」新政府は、中央の漢民族、東北部の満州民族、北部の内蒙古民族、西北部のウイグル民族、西部のチベット民族の、中国5大民族を結合… 続きを読む ...
昭和14年9月19日 南京にて、新支那中央政府構想の中心人物である汪兆銘、北京の「中華民国」臨時政府代表の王克敏、南京維新政府の代表である梁鴻志による、新支那3巨頭の会見が行われました。 昭和14年11月(1939年11… 続きを読む ...
昭和14年(1939年)9月19日の新支那3巨頭の歴史的会見から4か月後、昭和15年1月、北京(満州民族系)、南京(漢民族系)の政府代表に加え、その他の内蒙古、ウイグル(蒙彊)の政府代表を加えた重要会談が青島で開催されま… 続きを読む ...
昭和15年(1940年)1月23日からの青島会談にて、新支那中央政府の大綱が決定し、その2カ月の昭和15年(1940年)3月30日、遂に、新支那中央政府が樹立します。昭和15年5月(1940年5月)発行 「歴史写真」 で… 続きを読む ...
1928年6月「北伐」により、蒋介石に「中華民国」を奪われてから10年近い年月を経て、現在、日中戦争と呼ばれる「反蒋介石戦争」を経て、昭和12年(1937年)12月、北京政府はようやく「中華民国」を奪回しました。そして、… 続きを読む ...
昭和15年(1940年)3月20日、新支那中央政府が遂に樹立しましたが、旧北京政府にとっては、屈辱ともいえる「易幟」からは12年。孫文の死により「南北の平和的政府統一」が頓挫してからは15年の歳月が流れていました。 19… 続きを読む ...
1940年3月30日の汪兆銘氏の南京還都宣言に続き、1940年4月26日、新支那中央政府の樹立と南京還都を祝して、日中での盛大な慶祝典が開催されました。日本側からは、新支那中央政府の樹立に尽力した阿部大使が日本代表として… 続きを読む ...
汪兆銘は新支那中央政府の樹立後、北部の張家口、北京、南部の広東、蒋介石が政府を移したといわれる漢口、武漢などを訪問しています。一般的な歴史理解では、汪兆銘の政府は、日本の傀儡政府であったため、中国の民衆の支持を得られなか… 続きを読む ...
新支那中央政府樹立の慶祝には、東京の日比谷公園で行われ、公園を埋め尽くす程に人々が集まりました。日本人も、当時、我らが友である中国人の方々の新たな門出を祝ったのです。 新支那中央政府の樹立については、中国だけでは無く、日… 続きを読む ...