新支那中央政府樹立の真相4-新支那中央政府の樹立 1
昭和15年(1940年)1月23日からの青島会談にて、新支那中央政府の大綱が決定し、その2カ月の昭和15年(1940年)3月30日、遂に、新支那中央政府が樹立します。昭和15年5月(1940年5月)発行 「歴史写真」 では、新支那中央政府の特集が組まれています。
蒋介石とイギリスが実質排斥された中国では、「東亜新秩序」構想も基づき、単に、北京と南京の中国平原部の漢民族の政府ではなく、満州国、モンゴル族、ウイグル族、チベット族が一緒になり、新しい「大きな統一政府」の樹立を果たしました。これにより、中国は、かつての清帝国を領土的に復活させたことになります。
昭和15年5月(1940年5月)発行 「歴史写真」 から
昭和15年3月(1940年3月) ー汪精衛氏(汪兆銘氏)の孫文廟参拝
記事:和平建国を畢生の事業として奮い起こった現代支那随一の先覚者汪精衛氏を初め同時の傑士約30名は、3月19日南京中山陵なる孫文総理の霊廟に額づき、今や日ならずして迎えんとする新支那中央政府の黎明に対する感激を披歴した。写真の最前列の中央は即ち汪精衛氏(汪兆銘氏)。
上記は、中国の真の統一政府の成立により中国革命が果たせた報告のため孫文陵の参拝でした。孫文は「北京で病死」となっていますが、実際には「蒋介石により暗殺された」可能性が非常に高いです。南部政府の孫文が、北京へ行った理由は、「南北政府の平和的な統合」に向けて「平和会談」を行うためでした。この会談の開催を阻止するため、孫文は暗殺されたのです。蒋介石は、その後、孫文の側近を粛清し、南部政府の代表の座に就きますが、蒋介石は、「北伐は孫文の意志」だとして、イギリスの軍事力を背景に、北京政府に対し戦争を起こします。そして、「平和的な統合」に同意したかに見せ掛け、「張作霖を暗殺」し、混乱に乗じて、北京政府を潰し、「中華民国」を奪ったのです。その後も、「孫文の意志」である、「自分は孫文の正式な後継者」であると主張し、孫文の威信に預かるために、「壮大な孫文廟」を南京のすぐ側にある山に建造したのです。
一旦潰滅した北京政府は、日本と同盟し、再度の大内乱を回避しつつ、蒋介石政府を潰滅し、「中華民国を奪回」するため、「満州事変」を起こし、「北支事変」を起こし、現在「日中戦争」と呼ばれる「蒋介石排斥戦争」を起こし、10年近い年月を掛けて、「中華民国」の奪回と、中国全体での統一新政府として、新支那中央政府の樹立に至ったのです。
こうした経緯を知れば、新支那中央政府の樹立とは、当時の中国にとって、いかに快挙であり、極めて重要であったかご理解頂けるでしょう。
「新支那中央政府」と「東亜新秩序」構想
植民地化政策は、「絶対王制からの脱却」を理由に「民主革命を誘発する」のが、初期の「重要プロセス」でした。また、多くの場合、被支配層の「異民族の独立革命を誘発する」結果となりました。
そのため、植民地化を回避するには、上記の2点を「国家の政府体制」として満たす必要がありました。だからこそ、民主政府の下、各異民族が、優劣なく、平等であり、尚且つ、平和に共存できるアジアを目指す必要があったのです。これが「東亜新秩序」の意味でした。
「秩序」を英語に訳すと「Order」=「命令」という言葉になるので、「秩序」には、強制的な意味が強くなり、戦後の歴史では、「日本がアジアを支配下に置くため強引に傀儡政府を作った」かの様な話にされてしまいました。
しかし、「秩序(Chitujyo)」とは「Organaized」という意味です。中国での5つの民族による「連合同盟国家」を目指したのです。これは「自治領」よりも、更に進んで、各民族が「国家」として独立性を保ち、尚且つ、「中央政府」により連携する体制です。「支配国」と「被支配国」ではなく、夫々の国家が「中央政府」へ「代表者」を送り「大きな中国を継続する」体制です。日本の江戸時代や、アメリカの合衆国の体制に近い体制の政府を目指したといえるでしょう。
そうして、中国が大きく纏まる事が、「アジアの植民地化からの完全脱却に繋がる」と考えたのです。当時の中国と日本は、こうした「東亜新秩序」構想の実現に向って、新支那中央政府を樹立するに至りました。日本は、「蒋介石の排斥」と「中華民国」の奪回のため、中国各地域を巡りつつ、アジアの中央部と、北方、西方の異なる5つの民族の橋渡し役を担いました。
また、中国で新支那中央政府の樹立後は、清帝国のかつての属国であった、タイ、ベトナム、ビルマ(現ミャンマー)、インドネシア、フィリピンなども含め、「東亜新秩序」の枠組みに参加する形で、「大きなアジア」を目指しました。全て、欧米により「植民地化された国々」です。だからこそ、日本は、「外国」として、植民地政府と戦い、各国家の領土を「占領」したのです。日本の占領下(保護下)であれば、内乱を回避し、独立政府を樹立することが可能だからです。独立政府が安定後は、日本が国家として独立を認めれば、二度と「植民地化されない国家」が形成できるでしょう。これが、東南アジアを「占領した本当の理由」でした。
こうした「真相」を説明すれば、騙されたとはいえ、当時のアメリカがやってしまった事が、中国、アジア、特に、日本にとって、いかに「間違っていた」かはご理解頂けるでしょう。また、それだけに、蒋介石と妻の宋美齢がいかに極悪非道であったかを物語ると思います。
昭和15年5月(1940年5月)発行 「歴史写真」 から
昭和15年3月(1940年3月) 新支那中央政府なる(1)
記事:
新支那政治の基本を決定すべき中央政治会議は、3月20日より3日間南京中山北路国際聯歡社(連歓社)の大会議場に於いて開催せられ、汪精衛氏(汪兆銘氏)以下、中国各方面の代表者及び社会重望の士、合計30余名出席、和平建国に関する重要議題を協議して満場一致決定、茲に(げんに)新政府樹立の基礎確然として定まった。
写真:
(右上)会議に先立ち西尾総司令官と汪精衛氏(汪兆銘氏)との会見
(左上)中央政治会議会場
(右下)3月19日中山陵礼堂内にて孫文像に礼拝する汪精衛氏(汪兆銘氏)
(左下)会議に参列する王克敏氏一行の南京着で、右より朱深、齊燮元、王揖唐、王克敏氏の諸氏
注)重望(じゅうぼう):高い名声、大きな期待 / 茲に(げんに) : ここに
上記の記事の通り、「中国各方面の代表者及び社会重望の士」が「合計30余名」出席した大規模な国際会議でした。「東亜新秩序」構想の実現に向け、「和平建国」に関する重要議題を協議し、「満場一致」で議題は採決されたのです。
こうした政府が、どうして「日本の傀儡政府」という話になったのでしょうか?
写真拡大ー西尾総司令官と汪精衛氏。和やかムードですね。
日本の敗戦後、当時、南京に樹立した「新支那中央政府」は、アメリカ軍を引き連れ中国へ戻った「蒋介石により壊滅」されます。蒋介石は、中国全土の主権を主張し、毛沢東率いる中国共産党との間で戦争が勃発し、現在の中華人民共和国が樹立します。
毛沢東という人物は、非常に合理的で聡明な選択をする指導者だったようです。通常、世界史では、新しく樹立した国家の指導者は、以前の国家体制を完全否定し、無理にでもを違う「国家体制」に変えようとするものですが、「新支那中央政府」という「大きな中国」構想は、中華人民共和国へ引き継がれたようです。ただ、蒋介石という脅威を前に、全土を一気に共産主義化する必要性から、周辺地域などとの「友好的な共存共栄」からは遠ざかってしまったかも知れません。