西安事件では死傷者も出ており、蒋介石と張学良が、共産党との停戦のために「一芝居打った」とは考え難いです。しかしながら、結果的に、敵対する共産党との「停戦」に至り、既に「財政破綻」していた蒋介石にとっては「望むべく展開」に…
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西安事件(西安事変)を起こした張学良のその後ですが、昭和12年2月発行の「歴史写真」の巻末にある「世界日誌」にて、続報が掲載されています。 昭和12年2月(1937年2月)発行「歴史写真」から 昭和11年12月(1936…
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張学良は、蒋介石を西安で監禁し、蒋介石軍とは「軍事衝突」を前提に軍を集結させていました。現在の一般的な歴史認識では、蒋介石軍の方が、張学良と楊 虎城(よう こじょう)の連合軍よりも、軍事規模が大きく、張学良は勝つ見込みが…
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西安事件での張学良の要求は、Wikipediaには「共産党の討伐停止」や「政治犯の釈放」など8つの項目だったと記載されています。ですが、ここでは当時出版された「歴史写真」の記事を基に、「容共政策の実施」に絞って、張学良の…
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張学良の西安事件が起きた頃は、蒋介石政府軍が共産党軍を徹底的に攻撃し、撲滅寸前まで追い詰めていました。現在も、中国では、日本が共産党と戦っていたと「大きな誤解」が生じており、日中戦争時代の映画やドラマでは、常に日本軍が共…
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西安事件では、張学良は、蒋介石政府(国民政府)に対して、釈放条件として幾つかの「要求」を行ったようです。「歴史写真」の記事では、最も大きな要件として、「容共政策の実施」と「対日即時宣戦」の2つが掲載されています。「対日即…
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西安事件(せいあんじけん)は、1936年(昭和11年)12月12日に、西安という都市で、張学良が、蔣介石を拉致監禁した事件です。張学良は、出身は満州民族でありながら、満州国の分離独立に反対し敵対する蒋介石側に付いた人物で…
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