易幟の真相

易幟の真相

易幟(えきし)とは、「北伐」が終わった年である1928年12月29日、張作霖の長男である張学良が、北部の北京政府の政府旗を、それまでの「五色旗」から、南部政府が使用していた「青天白日満地紅旗(せいてんはくじつまんちこうき)」に変更する事に同意した事をいいます。これは、政府が使用する旗の単なる交換のような「印象」になりがちですが、当時の南北の対立構造を考えれば、北部の北京政府が、南部の北京政府に「完全敗退」したことを意味します。更には、これは、この時に、北部の北京政府が滅亡し、北部と東北部全土が、南部の南京政府の軍事支配下に入った事を意味します。この時に、北部の清帝国が共和制化した「中華民国」は滅び、南部の北京政府、要は、蒋介石に「中華民国」を奪われたのが易幟(えきし)の真相と考えます。

易幟(えきし)の「易」は取り換えを意味し、「幟と」はのぼりを意味します。読んで字のごとく、旗の交換ですが、「易」には「やさしい」の意味から転じて「軽んじる」という意味もあります。易幟(えきし)は単なる政府旗の交換ではありません。それまで国旗や政府旗を否定されるだけでなく、敵対して来た「南部政府と漢民族」を象徴する旗を強要されることは、中国で長期に渡り「支配層であった満州民族」にとっては、南北統一中国政府の必要性を理解していたとしても、相当な屈辱な仕打だったことでしょう。

中国の近代史は、この易幟(えきし)の真の意味が正しく理解されていないため、その後、満州民族によって建国された満州国が「日本の傀儡国家であった」という誤った認識になるといえます。


易幟の真相 一覧


 

易幟の真相1-青天白日満地紅旗

1928年12月29日、張学良が、北部政府の政府旗を、それまでの「五色旗」から、「青天白日満地紅旗(せいてんはくじつまんちこうき)」に変更する事に同意した事によりり、中国の南北政府の統一が正式に達成されたことを意味しまし… 続きを読む ...
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易幟の真相2-張学良と満州国樹立

蒋介石からすれば、張学良は、満州系北方政府を支配下に置くための「手駒」であり、そのため表向きは非常に高い地位を与え、それにより、統治下にあった北方地域の不満を抑える役割に使っていたといえます。張学良を配下におけば、間接的… 続きを読む ...
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易幟の真相3-日本への影響

蒋介石の北伐完成後、北部の北京政府は解体消滅し、12月の年末には「易幟」が決まり、翌年1929年1月1日から、中国北部(北支=北支那)、特に、東北部(満州地域)での政府旗(=国旗)が、「青天白日満地紅旗」に変更されること… 続きを読む ...
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易幟の真相4-ロシア(共産主義)への影響

蒋介石の支援国はイギリスやフランスといったヨーロッパ諸国でした。一方、イギリスとロシアは、東南ヨーロッパ地域=バルカン地域で領土利権を争い、長期に敵対的関係が継続していました。 バルカン地域は、ロシア(ソビエト)からすれ… 続きを読む ...
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易幟の真相5-易幟と世界恐慌

露支の戦争危機と世界恐慌 昭和4年(1929年)は10月頃から「世界恐慌」が始まった年です。中国の北部の北京政府が消滅し、南部の政府旗に置き換わる=易幟は、昭和4年(1929年)1月1日からです。その後、蒋介石は、日本排… 続きを読む ...
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