辛亥革命の真相
辛亥革命とは1912年2月12日、約300年に渡り中国を支配していた「清帝国」の最後の皇帝の退位させるに至った中国の民主主義革命のことをいいます。革命勃発は1911年でした。その年が辛亥の干支であったことから、辛亥革命と呼ばれてます。現在の歴史理解では、この民主革命は、孫文が決起し、「清帝国」を滅亡させ、共和制へ移行させ、中華民国を樹立したとなっています。しかし、実際のところは、北部の満州民族の「清帝国」の支配下にあった南部の漢民族の民族独立の為の軍事クーデターでした。
当時、中国では、日本の徳川幕府の末期と同様、当初は、軍事クーデターを起こした南部地域(省)に対し、清帝国が軍事鎮圧に乗り出します。しかし、ヨーロッパ諸国による植民地化危機を抱えていた中国では、こうした軍事衝突が、国内での大規模な内乱に発展する事が懸念されました。大規模内乱を回避する必要性から、日本の大政奉還(統治者による政治体制変更)を習って、帝国の政府統治者側が、皇帝を退位させました。これにより、国家を「帝政」から「共和制」へ移行し、無血で清帝国を終焉させました。
現在の歴史認識では、孫文が共和制国家である中華民国を樹立したことになっていますが、状況は日本の大政奉還の頃と同じだったと考えます。孫文は中国の南部出身の漢民族でした。孫文は「清帝国」を「中華民国」に変遷するほどの十分な軍事基盤も経済基盤も持っていませんでした。要は、「中華民国」は、「清帝国」が共和制に政治体制変革を行った国家だったと私は結論します。「清帝国」では「帝政」が終了したのであり、その後も「王朝」は継続していました。
一方、孫文は、辛亥革命の少し前に、南部で孫文が独立政府を立ち上げたとされています。しかし、これは、日本での「薩長同盟(反政府同盟)」のようなもので、本当に政府が成立し、「孫文が本当に大統領」だったかは怪しいと考えます。清帝国の基盤は、北部で建国された「中華民国」に全て継承されたといえます。孫文は南京政府の人物です。袁世凱は北京政府の人物です。現在の歴史理解のように、孫文が「中華民国」の初代大統領で、袁世凱が第二代大統領であったとするのは、歴史上無理があります。後の南北戦争の構図からも非常に矛盾します。
「清帝国」の首都は、中国北部地域の北京にありました。南部地域で民主軍事クーデターが起きました。仮に南部が独立宣言に至ったとしても、南部勢力が、中部や北部までを完全制圧するなど不可能です。北部の総統であった袁世凱には、孫文を自分達の政府の初代大統領にする理由は無かったでしょう。北部で「中華民国」が建国した直後に、清帝国(満州民族)の軍事総司令官であった袁世凱は、南部の軍事クーデターを軍事制圧しました。そして、孫文を中国から排斥(日本へ亡命)しました。そうした経緯から、南部地域の孫文が、北部での「帝政」から「共和制」への政府移行に直接関わったとするには無理があると考えます
私は、中国の近代史は、この辛亥革命と中華民国の樹立の頃から、正しく理解されていないと考えます。南部の孫文と、北部の袁世凱は、全く出身背景が異なりました。既に強大な軍事力を持っていた袁世凱が、南部の漢民族の独立の為に、わざわざ軍事協力する必要は無かったでしょう。南部の情勢と北部の情勢とは、別々に分けて歴史を再認識する必要があると考えます。
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