辛亥革命5ー辛亥革命と南北政府の完全分離

辛亥革命5ー辛亥革命と南北政府の完全分離

辛亥革命と南北政府の完全分離

現在の歴史では、南部で樹立した「中華民国」の政府では、初代の大統領が孫文で、第2代大統領が袁世凱という話になっていますが、その後の歴史の流れ、北京と南京と地理的な距離、夫々の立場、目指していた政府形態の違いなどの理由から、結論としては、南部では孫文が「中華民国」として独立国家宣言をし、北部では袁世凱が清帝国の帝政を終焉させ共和制の「北京政府」を樹立したと結論します。

清帝国の終焉は、1912年2月12日の皇帝退位とされています。しかし、この後、清帝国の皇帝は居城である紫禁城を退居していません。清国の朝廷はその後も存続していたのです。そのため、厳密には、皇帝退位というよりは、皇帝としての政権執行権の放棄と譲渡であり、歴史上は「終焉」とされていますが、それは帝政の終焉であり、国家としての終焉ではなかったといえます。

袁世凱は、帝政の終焉後、共和制政府を樹立するに当たり、新国家として独立宣言はせず、あくまでも共和制の「北京臨時政府」を樹立するに留まったと考えます。清国は国家として朝廷が存続しました。必然的に、皇帝は居城を追われる理由は無く、日本の天皇家と同様に、朝廷は執政政府である「北京政府」により保護維持されました。清国が国家として完全に終焉するのは、袁世凱の死後に起きた後継者争いの中、1924年10月23日に直隷派軍閥の馮玉祥による北京政変により、皇帝が紫禁城より退居させられた時点であり、この退居を持って清国の国家終焉とすべきと考えます。

また、現在の歴史理解では、孫文が樹立した「中華民国」を、建国後に袁世凱が奪った、又は、何かしら孫文と袁世凱が政権を争ったような印象になっていますが、この時代、独立国家宣言をして国家を樹立したのは南部の15省が集まって形成した「中華民国」だけです。この「中華民国」の独立国家の樹立は、普通に考えて、遠く離れた北京に本拠地を構える袁世凱には無関係で進んだといえます。最も大きな理由としては、清帝国での軍部執政権の全てを掌握する袁世凱にとっては、清帝国を維持した方が自身の政権維持に繋がるからです。わざわざ遠く離れた南部の揚子江域の南京の漢民族と関わり、南部を中心に15省の独立国家宣言に関与するメリットは全くありません。

一方、北部でも民主独立革命運動は発生していました。そこで、清帝国を共和制に政治体制を変換することで、革命の鎮静化しようしたといえます。袁世凱からすれば、清国のお膝元である北部での革命動乱が収まれば良いだけです。仮に南部の一部が独立したとしても、清帝国の軍隊を率いて南下すれば、「独立国家」は簡単に潰せたでしょう。実際に、共和制の北京政府樹立し、初代大統領就任後、南部に軍事侵攻し「中華民国」を崩壊させ、初代大統領であった孫文を国外追放するに至っています。これにより、袁世凱率いる北部は、再度「統一中国」を取り戻したといえます

その後は、フランスが絶対王制から共和制に移行したものの国家政府としての安定までは時間を要し、その間、度重なる戦争危機から強い求心人物としてナポレオンによる帝政の復活が起きた様に、当時の「北京政府」でも、南部の民主民族革命派による北部への軍事侵攻の危機から、袁世凱もまた帝政の復活を模索したようです。その際、袁世凱以上に強力な求心人物がいなかったため、自分を皇帝としたのでしょう。この事から、袁世凱が独裁に走ったとされています。しかし、袁世凱が北部の指導者たちを纏めていたのが事実です。孫文と同様、袁世凱の死後は、北部では袁世凱の後継者争いが生じて行きました。

こうした経緯から考えても、袁世凱は孫文の辛亥革命には直接的には無関係であり、南部の民族独立革命が北部へ波及するのを恐れ、清帝国側で一種の「大政奉還」をしたに過ぎません。皇帝より政府執政権を共和新政府へ全権譲渡させたということです。だからこそ、皇帝の主権譲渡(大政奉還)後も、清国は朝廷(国家)を継続しており、袁世凱はその朝廷の下で「北京政府」を樹立したのです。孫文は「中華民国」の初代大統領ですが、袁世凱は本来は「北京政府」の初代大統領であり、南部の「中華民国」の第2代大統領であることは有り得ないといえます。

その後も、北部の清国の朝廷の下で「北京政府」は継続し、1924年10月に北京政変で清国の朝廷が終焉し、国家から北京政府が分離した後も、1928年の「北伐」で南部の蒋介石政府に敗退するまで、「北京政府」は北部の独立執政政府として継続していたと考える方が正しいでしょう。